まずはサンフランシスコへ(第19次遠征隊#1)2023/06/17

 第18次は2019年7月だった。コロナ禍を経て、3年10ヶ月ぶりのアメリカだ。
その間に白髪になり(というのは単なる表現、染めるのをやめただけ)、ワクチン接種優先対象の高齢者であることを自覚した。そうだ、うかうかしてはいられない。できるだけたくさん旅に出よう

 5月中旬、幼なじみのMと、ZIPairの成田ーサンノゼ便で出発した。LCCのZIPairはJALの子会社、とてもリーズナブルな運賃でフルフラット・シートを利用できる。予約制のお弁当がかなりわびしいけれど、横になって11時間を超える飛行時間を過ごせるのはありがたい。
 出発時間は午後4時過ぎ、(当然ながら時間は戻り)その日の午前10時に到着して、サンノゼ空港からサンフランシスコ空港近くのホテルまでUberで移動した。

 そうそう、入国審査の失敗談を書いておかなきゃ。
今思えば気分が浮ついていたのだろうが、係員に
「所持金はいくら?」
と質問され、
"ten thousand dollars"(100万円、いや実際のレートでは140万円弱)
なんて答えちゃったんである。計算苦手にしても、ドルと円の言い間違いにしても、完全なるおバカ!
「二人とも?」
"yes"
その後すぐ「あ、違った。そんなにお金持ちじゃありません」
と訂正した時には既に遅し。
別の係員がやって来て、友人と一緒に通常とは異なるレーンに連れていかれてしまった。ごめんね。
幸い、そのアジア系係員がわたしのバカさ加減に気づいてくれたので、無罪放免。ほっとしてサウス・サンフランシスコに移動することができた。
まあ、その旅行中しばらくは「100万円」がわたしたちの合言葉になったけど。

 ホテルに荷物を預け、午後半日だけのサンフランシスコ観光に出た。
BARTで市内のエンバカデロへ行き、フェリー・ターミナル・ビルでランチの後、トロリーバスでフィッシャーマンズ・ウォーフへ。
 これは散歩しながらやって来た、ギラデリ・スクエア近くの写真だ。遠くにゴールデン・ゲイト・ブリッジが見える。
Mとわたしが一緒に初めて土を踏んだ外国の都市は、このサンフランシスコだったのだ。
1970年代初頭、1ドル360円時代の夏期交換留学。わたしたちは高校生だった。

SF2023


ボルチモアを歩く(第18次遠征隊#5)2019/07/13

 旅行も終盤だ。アムトラックの遅延で27日は何もできず(ベトナム料理店でフォーを食べたけど)、28日から1日半ボルチモア市内をバスと徒歩で巡った。

 must-seeはボルチモア美術館コーン・コレクションのマティス。ゆっくり時間をかけたい、至福の時だ。ピンクヌードとブルーヌードがある。500点もの作品を買い上げてマティスを支援したコーン姉妹は、G.スタインの友達でもあった。コレクションには、ピカソやミロ、セザンヌ、ジャコメッティ他作品も含まれている。
CONEmatisse

 考えるロダンのホールには、美しいAntiochモザイク画がぐるりと貼られていた。シリア国境に近いトルコの地方から発掘されたという。
rodin

 バスに乗り、レキシントン・マーケットの有名シーフード店 Faidley へ。言うまでもなくクラブ・ケーキを注文した。確かに別格の味だ。raw barで新鮮な肉厚の生クラム(ハマグリ)も。
 ランチタイム後の暇な時間帯。魚売り場の黒板に"raccoon"とあったので、ラクーンってシーフードじゃないけど食べるんですか?と聞いたら、そうだよ、見たいかい
?と、皮を剥いだカチカチのアライグマを冷凍庫から出して見せてくれた。アリゲーター、フロッグも書いてあったなあ。
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 マーケットから数ブロック歩けば、40歳で謎の死を遂げたポーのお墓がある。
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 ポーの家は、せっせと歩いて到着したら既に閉まっていた。閉館時間まで30分あったのに。ドアの貼り紙を読んでいたら、隣人(シャツを着ていない黒人男性)が顔を出し、「誰も来ないから、スタッフはさっき帰ったよ」と教えてくれた。ポーが1831年から3年ほど住んだこの小さな家には、家具と展示品が少々置かれているそうだ。
通行人はほとんどいない。バス停まで数ブロック歩く。治安の悪い地区らしいことを後で知った。
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 インナーハーバーを散歩しよう。全米屈指のナショナル水族館に行く時間はないけど。この帆船はUSSコンスティレーション。
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 29日(土)朝、オリオールズ球場とベイブの像 、
ベイブ・ルース博物館にも足を伸ばした。帝国ホテルのハッピが、ベイブお気に入りのナイトローブとして展示されていた。それはFLライト建築の帝国ホテルだ。USチームのジャパン・ツアー動画には戦前の日本が映し出されていた。
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 世界で最も美しい図書館 の一つに数えられる ピーボディ図書館 
オスカー・ワイルドの自筆メモがあるドリアン・グレイの肖像や、ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』初版本などが飾られていた。
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 この日の午後、再びアムトラックで(今度は遅延なし)レーガン国際空港に近いアレクサンドリアに移動した。翌30日(日)朝の飛行機に乗らなければならない。
 
 アレクサンドリアのオールドタウン、ウォーターフロント公園からポトマック川を眺めた。美しい夕暮れだ。
第18次の備忘録はこれで終了としよう。残るはアラスカ、、!
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キティホークへ(第18次遠征隊#4)2019/07/13

 もう一つのテーマはライト兄弟だ。49州目になるノースカロライナの地図を広げた時最初に目に入ったのが、ライト・フライヤー初飛行の土地キティホークだった。大西洋沿いに細長く砂州が連なるアウターバンクスにある。

 まず、ウィリアムズバーグのアウトレットを経由して、ジェームズタウン歴史地区へ行った。1607年、イギリスから最初の入植者がやって来た場所だ。
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 キャプテン・ジョン・スミスの像は、ジェームズ川を見渡す位置に立っていた。そして砦のこちら側に、ポカホンタスの像が置かれている。
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 出発前アウターバンクスの海沿いにホテルを探したが、ピークシーズンに一人で気軽に泊まれる所はない。150kmほど離れたノーフォークのモーテルを2泊予約していた。晩ご飯は車でpo-boyサンドなど買いに行く。
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 26日(水)午前、ライト兄弟メモリアルに到着。実際の所在地はキティホークでなく、少し南の Kill Devil Hills というすごい名前の町だ。悪魔を殺すほど強いラム酒を隠した丘、という意味らしい。
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Wilbur, steady and confident
Orville, impulsive and optimistic
 スミソニアンの航空博物館では、ウィルバーとオーヴィル二人の性格がこう表現されていた。静と動が助け合い補い合って、不可能を可能に。 "making impossible possible" という言葉は力強い標語のようだ。
 ライト・フライヤーのレプリカと小さな模型。本物の木製プロペラと翼に張られていた帆布もあった。
 初飛行の成功は、1903年12月17日。スタート地点と計4回の着陸位置に石碑が置かれている。
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 その当時、ここは一面の砂丘だったそうだ。今は草に覆われ、小高い丘の上に堂々とした記念碑が立っている。
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 アウターバンクスを南へ移動し(ランチはフィッシュ・タコス)、ボディアイランド灯台へ行った。本日のチケット完売なり。登れません。うーむ、やっぱり。
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 州道の外側、海沿いの道をゆっくり走ってみよう。穏やかに大西洋が広がる。もちろん海岸を歩いて貝殻を拾い、砂だらけになる。
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 27日(木)ノーフォークを出発してリッチモンドに戻りレンタカーを返却(走行距離は459マイル、約735km)、昼過ぎのアムトラックでボルチモアに向かった。
 と書くと順調そうだが、実は2時間の遅延だった。あー、やっぱり。
ベンチの隣にいた、こちらも遅延の70代ケイさんの身の上話を聞く。ヴァージニア州のタバコ農家に生まれ、これから娘の住むシャーロットに行くところ。夫とはずいぶん前に離婚し、下の息子が3年前病気で亡くなった。趣味は木彫り。そして美しい木彫り作品写真を見せてくれた。お話しできてよかったね、とハグして別れるアメリカン。こうした予想外の会話が一人旅の楽しさだろう。
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リッチモンドの黒猫(第18次遠征隊#3)2019/07/12

 6月24日(月)から4日間レンタカーを利用した。空港営業所なら早朝深夜も開いているが、市内は9am-17pmが多い。以前ボストンで車が返却できず四苦八苦したこともある。今回はバスや電車の発着時間を考慮し、リッチモンド市内の営業所から借り出した。赤いKIA、燃費よく滑らかに走る。ドライバーは相変わらずモタモタ道を間違えるけど。
 
 セント・ジョンズ教会 St.John's Church
 1775年ヴァージニア植民地の指導者パトリック・ヘンリーが、名演説 "Liberty or Death!"(自由を与えよ、然らずんば死を)を行ったのはここ。独立戦争当時の衣装を着たスタッフが、たった一人の観光客をフルートで迎えてくれた。木の陰にエドガー・アラン・ポーの母エリザベスのお墓がある。
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 リッチモンド・ホワイトハウス White House of the Confederacy
 南北戦争時に分離独立した連合国の大統領ジェファソン・デイヴィスの官邸。
1時間のガイドツアーに参加した。リー将軍が降伏した1865年、南部の首都リッチモンド入りしたリンカーンがここへやって来た。暗殺の2週間ほど前のことだ。
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 ヴァージニア州会議事堂 Virginia State Capitol
 トマス・ジェファソン設計、1788年完成。
南のバンク・ストリート入口から地下の通路を通って行くと、
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議事堂中央にジョージ・ワシントンの像がある。
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 25日(火)
 エドガー・アラン・ポー博物館  The Poe Museum
 リッチモンドで最も古い家に、ポーの生涯と作品にまつわる様々なものが展示されている。詩人、推理小説/SF小説の始祖、ピクチャレスク・ゴシック怪奇小説作家、不運な子供時代、謎の死、
G.スタインやダリ、ヘンリー・ミラーなどもここを訪ねたらしい。
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 スタッフが「中庭に黒いのがいるけど、気にしないでね」と言うので「えっ、大鴉 おおがらす Raven?」と驚いたが、nevermore! でなく、猫だった。
にしても、ポーの庭の黒猫、、、ちょっとゾクゾクする感じがいい。
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DCからリッチモンドへ(第18次遠征隊#2)2019/07/11

 今回のDC滞在は2日間。猛烈に活動的だった初日の後、残るタスクはナショナル・ギャラリーだけだ。ゆっくりとチェックアウトを済ませて荷物を預け、数ブロック南へ下った。日曜11時の開館をドアの前で待ち入場。

 映画 "Night at the Museum 2" が現実だとしたら、ベンチ家のジネーヴラ嬢は、たった今大急ぎでフレームの中に戻ったばかりだろう。
(左利きのハンサムおじさん、初期フィレンツェ時代1478年頃の作品。ウォルター・アイザックソン作の評伝レオナルド・ダ・ヴィンチに、輪郭をぼかすように描くスフマート技法や歪像の解説があった。わずかな笑みが30年後のモナリザへと繋がっていく。肖像画の裏には月桂樹と椰子のリースが描かれている。)
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 そして3人の大統領たちも、さっきまでしかめっ面で議論を戦わせていたに違いない。
(エミー賞受賞のHBO作品ジョン・アダムズ2008がAmazonプライムにある。ワシントンとジェファソンの影に隠れていた地味な2代目が主人公。)
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 広い館内には、見応えのあるヨーロッパ絵画が続いている。3時間あれば十分と思っていたのに、現代絵画の東館は今回も急ぎ足になってしまった。ナショジオ・ドラマピカソでちょっとした山場だったサルタンバンクの家族がある。この奥にはセザンヌ、ブラック、マティス、そして最近少し解りかけてきたドイツ表現主義作品が架かっていた。
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 ところで、ギャラリーの案内地図に印刷されているゴッホの自画像は一体どこだろう。外に出てから見ていないことに気づき、見逃してしまったのかと焦ったが、調べてみるとロンドンのテート美術館に貸し出し中なのだった。なあんだ。

 
 午後2時過ぎホテルへ荷物を取りに行き、メトロでユニオン駅へ向かった。今回は一人旅だし、東海岸は交通機関が発達していることもあって、バスで楽に安く移動することにしたのだ。ヴァージニア州のリッチモンドまで、Megabusで2時間半の距離だ。

 ユニオン鉄道駅の駐車場奥に、グレイハウンドなどのバス乗り場が並んでいる。
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 リッチモンドのメインストリート駅は人影まばらだった。少し離れたホテルまで、初めてのUberで移動した。6/23
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国立アフリカ系米国人歴史文化博物館 (第18次遠征隊#1)2019/07/09

 ワシントンDCのスミソニアン博物館群は無料で自由に入場できるが3年前に開館したNational Museum of African American History and Cultureだけは時間指定券が必要だ。特に夏期ピークシーズンの週末はtimed entry passなしの入場不可。当日の早朝6時半にネット予約が開始される。ということを、出発2週間前に知った。
 DC到着翌日(6/22土)5時半のアラームで目を覚まし、6時半ぴったりにsame-day onlineを開いた。が、何も始まらない。サイトを出たり入ったり、、と10分後、やにわに表示が変わり、おおっと30分枠のひとつをクリックした。でも、先に進もうとしてもはねられてしまう。アクセスが集中しているのだ。別の枠を選んではねられる、また選んではねられる、を繰り返す。そうこうしているうちに小一時間たち、非情にも全時間帯はsold outになってしまった。撃沈意気消沈、、はるばる太平洋を渡ってきたというのに。もう、二度寝しちゃうぞ。でも眠れるわけない。

 第18次遠征隊は、出だしから主目的のひとつがこんな調子だった。うなだれて出かけたフォード劇場。

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 1865年4月14日にここで起きた歴史的暗殺事件の解説を、皆熱心に聞いている。貴賓席は当時のままだ。背後からリンカーン大統領を撃った(俳優)ジョン・ブースは手すりを乗り越えて舞台に飛び降り、驚愕する観客の前を横切って、馬で逃走したのであります。地下には様々な資料、実際の拳銃も展示されていた。興味深い。でも、気持ちは晴れない、、。
 解説が終わりかけた頃、ふと思いついてスミソニアン・サイトに繋いでみた。と、いくつかの時間枠が緑に変わっている。えいっ、正午の枠を確保!

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 首都は青空、たちまち気分は晴れわたり、気温30度の中モール沿いの道をスタスタ移動した。チケットなしで並ぶ列を横目に、セキュリティを通る。受け入れ人数の調節で、指定券を持たなくても運がよければ入館できるのかもしれない。
 夏休みとあって、この後足を運んだどの博物館も、親子連れや校外学習の生徒たちでたいそう混雑していた。とは言え、アフリカ系アメリカ博物館の混み具合はケタ違いだ。
 
 今また博物館資料 the Collection を見れば、感動的なあの3時間がよみがえる。
 L4カルチャー・ギャラリーのMusical Crossroads、サッチモやマイルス・デイビスのトランペット、エラ・フィッツジェラルドのドレス、サム・クック、ジミヘン、レイ・チャールズ、クインシー、プリンス、カラー・パープルのウーピー衣装、およそ人間のものとは思えないダイアナ・ロスとホイットニーの服、、、
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 L3コミュニティ・ギャラリーのアリ、カール・ルイス、ジョイナー、野球やバスケットボール他の数えきれないほど多くの名選手たち
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 リチャード・ライト、ジェイムズ・ボールドウィン、トニ・モリスン、ニッキ・ジョバンニ、、
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 こうした人々がアメリカの音楽、映画、スポーツ、文学を驚くほど豊かな厚みのあるものにしてきたのだ。アフリカ系アメリカ人を抜きにこの国の文化は語れない。その圧倒的な才能と力に胸が熱くなった。


 C1ー3の歴史ギャラリーに入るには、まるで上野の美術館のような、長い列に並ばなければならない。
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  C3 Slavery and Freedom 1400-1877 には時代に沿って奴隷船や奴隷市場、独立戦争、南北戦争当時の資料が並んでいた。ナット・ターナーの聖書、ジョン・ブラウンやフレデリック・ダグラスの手紙、そしてハリエット・タブマンのショールに見入った。
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 そこからC2 the Era of Segregation 1876-1968へ移動すれば、隔離政策時代のシットイン・カウンターや電車が置かれ、もちろん公民権運動のMLキングやローザ・パークス、マルカムXが続く。そしてC1の A Changing America 1968 and beyond。"Black is beautiful."を経て、オバマ大統領やオプラ・ウィンフリーの登場は着実な象徴的変化であっただろう。
 ラングストン・ヒューズの "I, too, sing America."が、出口スロープの壁面に大きく書かれていた。

 午後後半は、息子へのお土産を買いに Wizards shop(八村グッズはまだ、ドラフト数日後で当たり前)、航空博物館のライト兄弟コーナー、それからアメリカ美術館と肖像画美術館(夜7時まで)

旧Yahooブログの引っ越し2019/06/07

 Yahoo!ブログ終了に伴う移行ツールの提供開始、という案内が来た。しばらく放っておいた旧ブログは、いつだったか覗いてみた時には読み込み不可になっており、もう消滅したものとあきらめていたのだ。が、説明に沿ってデータ移動を試したところ、あら不思議、2005年から1年半ほどの記録が数日で復活した。

 引っ越した旧「恐ろしべき」日本語教室(書庫)を読み返すと、あれもこれも愉快でたまらなかった新米教師の高揚した気分が蘇る。教えることは相互作用であり、初めて出会うどの学生とのやりとりも各々異なっているはずだ。その新鮮な意欲がすり減っていないだろうか。はい、摩耗してます、正直に言えば。

 旧ブログには、アメリカ全州ドライブを開始した頃のことも書かれていた。2006年1月のメモだ。

「長田先生方式で、時々飛んではドライブしたら、60才くらいには終わるかな」と書いた13年前のわたし、いや、もう少し長くかかっているよ。おそらく、来年にはね。