みんな旅をしたのだ2016/06/12

 手元には、もう絶版になった安岡章太郎さんの『アメリカ それから』(角川文庫 1975年)もある。
みんなアメリカを旅したのだなあ。どの本も細部は全く覚えておらず、印象のようなものしか残っていないが。
久しぶりに開いてみると、江藤淳さんのはプリンストン大学滞在日記だった。藤原正彦さんの『若き数学者のアメリカ』も読んだ記憶(だけ)が。
 ガイドブックではない。出かけて出会って考えたことが書かれている。それらを読んで喚起され、わたしもまだ時折ウロウロしているのだ。



少しずつフランク・ロイド・ライト2016/05/29

 先週、友だちと池袋の自由学園明日館を見に行った。フランク・ロイド・ライト(1867-1959)設計の建物だ。
 FLライトという言葉を初めて聞いたのは、1970年サイモン&ガーファンクルの曲 "So Long, Frank Lloyd Wright" だが(わたしたち世代の共通項だろう)、それが著名な建築家の名前であること、アート・ガーファンクルが建築専攻だったこと、"so long"の意味は後からゆっくりやって来た。
 それからずいぶんと長い時間が過ぎ(本当に!)FLライトはいつの間にか気になる項目の一つになって、いくつかの場所を訪ねている。普通の人が目をパチクリするような、劇的な生涯を送った人物でもあるのだ。備忘メモをつけよう。

  2005年、シカゴのルッカリー(1888年建築)の前を通った(だけ)。映画『アンタッチャブル』の撮影にも使われたこの美しいビルは、1905年にライトがロビー部分の改装を設計したそうだ。The Rookery Light Court
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 2007年秋、シカゴ郊外オークパークの自宅とスタジオを見学した。
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自宅ライトが22歳の時建てたごく初期の作品だ。(1889年)
ここで6人の子供達が育った。中は撮影禁止だったが、工夫を凝らした楽しいプレイルームが印象に残っている。
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 2008年秋、NYC グッゲンハイム美術館内をカンディンスキーを探してぐるぐる歩いた。 Guggenheim Museum (設計は1945年頃、完成はライト没後の1959年history
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 同じ旅行で、メトロポリタン美術館2階通路に窓の意匠デザインを見つけた。
window(1912年)The Met fifth Avenue Gallery
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 2012年秋、愛知県の明治村へ旧帝国ホテル(1923年完成)を見に行き、
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大谷石のタイルデザインを見上げた。
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 そして、先週の明日館(1921年完成)。帝国ホテルのために日本に滞在していたライトに、弟子の遠藤新が自由学園の創立者羽仁夫妻を紹介したという。
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 深い庇、緩い勾配の屋根、光を取り込む連続した窓、仕切りの少ない広い空間、自然に溶け込む色合い、というプレーリースタイルは、シカゴ大火(1871年)後のシカゴ建築ブーム、鋼鉄のシカゴ派を経て生まれた真にアメリカ中西部的な建築だ。
ライトのステンドグラスや家具デザインはモダニズムそのもので、華美な装飾のない直線と図形からできている。バウハウス、ウィーン分離派、アールデコ、ル・コルビュジエ、20世紀のこの時代には各地で新しいものが次々と生まれた。どれも好きなスタイルだ。
 映画『ガタカ』の撮影が行われたカリフォルニア州のマリン郡庁舎(1957年、ライト90歳の作品)も、いつか見に行ければと思っている。

ネイティヴ・アメリカンの小さな本2016/05/23


 乾いたアリゾナ州やニューメキシコ州に住んでいるのは、ナヴァホ族、ホピ族、ズニ族、プエブロ族などだ。子供向けの小さな本は、彼ら南西部インディアンのシンボルのステッカーになっている。イーグルは知恵と直感、バッファローは富と成功、サンダーバードは自由と神秘、何だかパワーをもらえそうで、かわいいステッカーをノートの隅に貼ってます。まあ、気分だけど。
 もう一冊の本には、ネイティヴ・アメリカンの言葉とともに、エドワード・カーティスの写真が収められている。100年前に撮られた酋長や勇者たちの顔がよい。こんな老人になりたいものだ。無理だけど。短い言葉も確かに何かを伝えてくれる。ただし、手のひらに載るほど小さくて、ちょっと読みにくい。

ハドソン湾クエスト#52016/05/21

エピソード5 凍てつく海の端まで
 浅瀬で無残に傾いているBOBを救って旅を続けるのか、話し合いに加われないほど疲れ切った者もいる。Swampy Lake スワンピー湖からヘイズ川を東へ、残りは250km。船底に開いた大きな穴だけでなく、船の背骨キールも割れる危機的状況だが、前に進む以外の選択肢はない。覚悟を決めた乗組員たちは木立から修復用の木材を作り、壊れた樽や木の樹脂スプルース・ガム(先住民が噛んでいたチューイング・ガムの元祖)を使うなど工夫してBOBを立ち直らせた。昔のヨーク船は、何艘かのグループで移動した。仲間の船が沈めば、助け合ったり陸路で旅を続ける者もいただろう。数日がかりの修理が終わり、現代のヨークマンも信心深い隊員の祈りに全員が頭を垂れた。
 水漏れの続くBOBで濁流を乗り切ると、前に流された積み荷が浮かんでいた。回収後、急流や浅瀬では船の調子を見ながらポーテージし、苦心して3日進んだところで、再び岩に衝突。慌てふためいて飛び降りる彼らを川岸に残しBOBだけ流れかけたが、辛うじて引き戻した。試練は終わったのだろうか。
 8月の終わり、ヘイズ川を湿った冷たい空気が覆い始めた。周囲は荒涼とした風景に変わり、ハドソン湾の方角から寒気が吹き寄せる。アザラシも姿を現した。残り100kmを切る頃風は強まり、潮の流れのため先に進むのが難しくなった。焚き火で暖をとった後、潮の満ち引きを予測して夜に漕ぎ進むことにした。
 今日こそゴールだ。わずかな仮眠の後、北から追ってくる嵐を避け河口に向って力を合わせて進む。チームは強くなった、肉体的に精神的に。「平凡なカナダ人たちが非凡なことを成し遂げようとしている」
 ”Ordinary Canadians doing the extraordinary"
61日目午後、ヨーク・ファクトリーに到着。1840年の先祖と同じようにハドソン湾会社の倉庫に積み荷を運び入れ、名簿に名前と肩書きを記した「ヨークマン」

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 一週間放っておいたら、やっぱり内容を忘れてました。仕方なく復習。
地味だけど、いい番組です。その後ますます盛んになったドキュメンタリー風リアリティ番組と比較しても良心的だし、歴史考察の意味がありますよね。
Hudson's Bay Company, portage, pemmican, spruce gum, Cree族など

ハドソン湾クエスト#42016/05/14

エピソード4 ヘルズ・ゲイト(地獄の門)を超えて
 36日目、解放感に溢れて再び水路に出る彼らを待っていたのは、Hell’s Gate というおどろおどろしい名前の峡谷だ。ヘルメットとライフジャケットを身につけて、荒波にもまれ、次々と現れる岩を避け急流を下っていく。出発から600km、行程の半分は越えたのだ。 Hayes River ヘイズ川には流れの緩やかな川幅の広い場所もあり、力を合わせて漕ぎ進んだ。岩場では川岸に降り、慎重に船だけを綱で引いて移動する(これもポーテージングと呼ぶらしい)。毛皮交易の先祖から五千年遡れば、そこには先住民パナパナ族とピチコナ族が住んでいた。川沿いの岩に古代の壁画が残っている。
 40日目、マニトバの夏は短い。冷たい雨が降り出し、乗組員たちはセーターとウールの毛布コート(ペンドルトン!!)を着込んで漕ぎ続け、中継地 Oxford House オクスフォード・ハウスに到着。村人の歓迎を受け温かい食べ物に癒され、共通の先祖を持つ人々に挨拶をして川に戻った。
 6週目を過ぎ、疲れ汚れ濡れそぼった乗組員はそれぞれに孤独であり、真のヨークマンになりつつあるが、船も痛手を受けている。時間をかけて水漏れを修理し(病人はカメラクルーの看病を受け)、ポーテージしながら川を下り続けるうちに、ペミカンはすっかり水浸しになった。どんよりした雲が執拗につきまとい、日に日に寒くなる。傷ついて弱ったBOBは何とかハドソン湾に近づいていたが、47日目、予期せぬ急流に飲み込まれ、二度三度岩にぶつかった後、大破した。
 19世紀の voyageours はそのようにして命を失ったのだろう。でも、これは21世紀のTV番組だ。乗組員と積み荷は撮影隊に救われた。となると、断念/撤退するのか。ここまで来て?

ハドソン湾クエスト#32016/05/13

エピソード2 湖
 初日の水漏れなど、ほんのささいなトラブルに過ぎなかったことを知る。ウィニペグ湖の南北の長さは416km。風に押し戻されながら、一日に10時間以上北へ北へと漕いで行く。真夏の暑さもさることながら、一行を最も苦しめたのは絶えず襲いかかる虫だった。体の周りを飛び回り四六時中耳元でブンブンうなり、全員が睡眠不足になった。どうやって眠るかが大きな課題になり、積み荷を覆う布を縫い合わせテントに仕立てた。頭に袋をかぶり「エレファントマン」になった者もいた。川沿いの知り合いの家でもらったジャムや蜂蜜が元気を奮いたたせ、ミシシッピ川を行くトム・ソーヤの気分にもなった。そんな時、旅は達成可能 attainable のように思われた。
 17日目、食料にカビが生え始めた。多く積まれていた保存食ペミカンまでも。バッファロー、鹿、エルクとムース(ヘラジカ)などの肉と脂肪にブルーベリーやカラント、木の実などを混ぜ込んで作られるペミカンは、元々ネイティヴ・アメリカンの食べ物だった。度重なる水漏れで積み荷はすっかり湿っている。
 19日目、湖北端にあるクレー族の Norway House ノルウェイ・ハウスでは York Day の祭りが行われていた。ハドソン湾会社が中継地として利用した場所だ。バグパイプに歓迎されて上陸し、補給を受けた。スコットランドからの先祖が、150年前にその村を通り過ぎたのだ。


エピソード3 グレイト・ポーテージ
 数世代前の traders たちが大勢 Norway House の川を見下ろす墓に眠っている。たやすい旅路ではないことをひしひしと感じ、ネルソン川を東へ漕ぎ進む。Sea River Falls シーリバー滝で最初の portage 連水陸路運搬(繋がっていない川と川の間の陸路を船を引いて移動すること、つまり、まず積み荷を何度も背負って運んだ後、大きく重いヨーク船を次の川まで引いていく)を経験、木の生い茂る凸凹の小道40mを抜けるのに24時間かかった。彼らの前にはまだ幾つかの portage が横たわっている。
 Echimamish River エチマミシュ川でビーバーダム(の呪い)に手こずりながら、さらに東へ進む。29日目、最大の難関(のひとつ) Robinson Portage ロビンソン・ポーテージに到達した。長さは350m。暑さと虫と土砂降りの雨に消耗し、脱落寸前の者も現れた。話し合いの末TV制作会社に援助を求めたが、1840年に助けはあったか?というそっけない答えが返ってきただけだった。ちょうど半分まで来たのだ。前へ進むしかない。
 限界まで力を振りしぼり、七日間でその関門を通り抜けた。喜びに湧いて再び水の上へ。先祖と同じ時間をかけてグレイト・ポーテージを通過した彼らは、苦痛はいつか過ぎ去り美しさが残るという教訓を得ただろうか。

カール・マイって誰?2016/05/11

 ハドソン湾クエストの悪筆メモを解読しなくてはいけないのだが、今日聞いた話も書いておきたい。

 カール・フリードリヒ・マイ(1842-1912)というドイツ人作家の書いた小説が大変面白く、中でも『アパッチの酋長、ヴィネトゥ』はとびきり痛快で血湧き肉躍る冒険譚であるらしいこと。

 カール・マイ? スロバキア人学生に教えてもらうまで全く知らなかった作家だ。よく読まれているんだろうか。「ヴィネトゥ」が書かれたのは1893年だから、作品は19世紀、西部開拓時代の話だろう。日本語の資料はわずかで、取りあえず図書館に筑摩書房版をリクエストした。

 ドイツ東部の小さな町に生まれ物語を描く才能に恵まれたものの家が貧しかったため師範学校にしか進学できず、そこでの厳しい規律への反抗から禁固刑を受け更生施設や刑務所に送られたが、不自由な生活の中で想像の世界を広げ文筆を仕事にすることを決意し編集者を経てフリーの小説家になり、やがて当代随一の人気作家となったカール・マイの冒険小説はオスマントルコ帝国やアンデス山中、アマゾン流域、またアメリカ西部などを舞台としており、その地名地形風俗描写の綿密さもさることながら民族宗教を語る比較文化/文化人類学的視点は確かで、変化に富む奇抜で見事なストーリー展開に読者たちは息を呑んで夢中になり、70代になったアインシュタインとシュバイツァーとヘルマン・ヘッセでさえ少年時代にその魅力の虜になったことを膝を叩き合いながら語り合ったという。(wikiを一文にまとめてみた)

 そんな世界大冒険物語を書いたにもかかわらず、カール・マイは一度もアメリカへ行ったことはなかった。そして、ネイティヴ・アメリカンは白人の無法者の犠牲者として描かれている。って、へえ、面白そうですよね。

 春学期は上級文法を受け持っているのだが、このレベルの学生たちとは本の話ができるのがとても楽しい。日本ではあまり知られていない作家や翻訳が出ていない作家について、他では得られない新鮮な情報が入ってくるのだ。最近では、それがこの仕事の魅力の一つになった。