変わらない暮らし20222022/04/11

真冬に蒔いたほうれん草と春菊の中に、
得体の知れない大きな種が紛れ込んでいて、
ずんずん大きくなるこれは何?と毎日疑問に思っていた。
暖かくなって花が咲いた。
菜の花だった。
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冬から春へ、世界は一変した。
3月末、M&愛犬チャロとの春の旅行は那須だった。
各部屋に露天風呂(すてき、でも寒い)、
少しドライブすれば超人気のベーカリー、
気持ちの奥にいつも重苦しい雲があるけど、暮らしは変わらない。
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・日本語の仕事は、開講クラスが少ないため、お休みになっている。そろそろ引退かな。

旅行というもののまっとうな動機2021/12/16

 8回契約のオンライン・プライベート授業が、今日終わった。
関西地方で2年間のJETプログラム参加経験があるAさんはJLPT N2合格済みであり日本文化にも詳しい。どんな教材を使えばいいのか、毎回ない知恵を絞った。N1レベルの聴解問題、語彙、使えるN2文法、短文作成、ディクテーション、マンガサイト利用の漢字ゲーム、速読、そして読解。

 使用した上級学習者向け読解問題の中に、村上春樹の『辺境・近況』の一節があった。読んだはずだが覚えていないこんな部分。

=========問題============= 
指示語を問う

 ポール・セローのある小説の中で、アフリカにやって来たアメリカ人の女の子が、なぜ自分が世界のあちこちをまわりつづけることになったかについて語るシーンがあった。
(中略)
本で何かを読む、写真で何かを見る、何かの話を聞く。でも私は自分で実際にそこに行ってみないと納得できないし、落ち着かないのよ。たとえば自分の手でギリシャのアクロポリスの柱を触ってみないわけにはいかないし、自分の足を死海の水につけてみないわけにはいかないの。
(中略)
そして彼女はそれをやめることができなくなってしまうのだ。エジプトに行ってピラミッドに上り、インドに行ってガンジスを下り、、、そんなことをしてても無意味だし、キリないじゃないかとあなたは言うかもしれない。でもさまざまな表層的理由づけをひとつひとつ取り払ってしまえば、結局のところ<それ>が旅行というものが持つおそらくはいちばんまっとうな動機であり、存在理由であるだろうと僕は思う。

<それ>は何を指しているか。
1 自由になりたいという欲求
 旅を続けたいという欲求
 現実的な感触への欲求
 無意味な行動への欲求

========問題 ここまで=========

 コロナ時代、どこへも行けない旅好きなわたしたちの飢餓感は、つまり、現実的な感触への欲求が本や写真や話では満たされないことによるのだろう。
ミシシッピ川の源流ミネソタ州アイタスカ湖の冷たく澄んだ水と、河口にあるニューオリンズの泥んこ水に手を浸して、なぜあんなにも深く満足したのか、
飛び続けていた時には振り返る暇もなかったけれど。


秋の小旅行/日光・益子ドライブ2021/11/22

 11月第1週に友達Mと栃木県の益子へ出かけた。コロナ第5波が落ち着いたので、またどこかへドライブ旅行しようということになったのだ。
紅葉シーズンまっさかり、入り口から渋滞している東北道を避け、外環から常磐道と北関東自動車道を経由して日光のM宅へ向かった。
 益子2泊は、もちろんMの愛犬チャロくんも一緒だ。ペットも泊まれる宿はどこだろう。今回は、廃校になった小学校校舎を利用して造られたペンションを利用した。昭和の木造校舎は郷愁を誘うが、つるべ落とし、秋の夕暮れの資料館見学はなかなか不気味だ。

訪ねた場所
 ・濱田庄司記念益子参考館 (バーナード・リーチとの交流、登り窯も)
 ・益子陶芸美術館/陶芸メッセ益子 (藍染の展示会よし)
  (小豆島に窯を持つスペイン人陶芸家と話した。自称ラマンチャの男)
 ・城内坂の陶器店通りと共販センター広場 (客用茶碗を購入)
 ・綱神社 (苔むした石段を登る)
 ・緑の庭 カフェ・フーネ (とても細い道の先)
 ・お蕎麦屋さん2軒 (アートな店と昔ながらの店)
 ・道の駅 もてぎ (季節のアイスクリームよし)
 ・リンゴ園売店
 ・手作り燻製ハム・ソーセージの店

写真を少し置いておこう。

 日光 霧降の滝
北斎の時代には岩肌がもっと見えていたのだろうか。
kiriifurifalls


 益子 人間国宝陶芸家、濱田庄司の記念館
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 濱田庄司は柳宗悦、河井寛次郎などと共に民藝運動を提唱した。
釉薬の流描による作品。流し掛けを「わずかな時間しかかからないのですね」と問われ、「15秒プラス60年と見たらどうか」と答えたという有名な話がある。
瞬時の釉がけにジャクソン・ポロックを連想した。
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 森の中にある綱神社へ足を伸ばした。鎌倉時代初期1195年頃に、宇都宮家三代朝綱によって建てられたそうだ。と書いたけど、実は地方の歴史をほとんど知らない。樹齢800年の椎の御神木があった。根元にたくさん落ちていた小さなどんぐりが黒々とかわいらしく、友達もわたしもそれぞれ数個持ち帰ったが、何日か後には明るい茶色に変わっていた。そういうものなんでしょうか。
tuneshrine


パリのオキーフ展20212021/10/17

 ニューヨーカー誌週末の本特集メールに、「ジョージア・オキーフ、ついにパリに到着」という記事が載っていた。
o'keefeParis
The New Yorkerサイトから拝借 Pelvis with the Distance, 1943

 ついに?

 ポンピドゥー・センターでこの秋開催されているオキーフ展が、何とフランス初の個展だという。
オキーフの夫だった写真家/画廊主のスティーグリッツは、芸術と商業は分離されるべきであるとし、美術館というものを快く思っていなかった。
そうした理由で、オキーフはじめ、ジョン・マリン、アーサー・ダヴなど291画廊系のアメリカ初期モダニズム作品が大西洋を渡ることはなく、ヨーロッパに初めて紹介されたアメリカン・モダニズムはジャクソン・ポロックだった。(マン・レイ、デュシャン、ピカビアらのニューヨーク・ダダをアメリカだけの美術活動とは捉えないらしい。)
フランスの美術評論家たちが「アメリカの」モダニズムは1947年に始まったとしている、というこの部分には、言うまでもなく、先月観たペギー・グッゲンハイムが関わっているだろう。

 それにしても、オキーフがヨーロッパではほとんど知られず、作品を所蔵する美術館がひとつもないなんて。
その背景には女性蔑視の考え方があったろう、とも書かれていた。

 途方もなく広がる乾燥したニューメキシコの風景、宙に浮かんだ動物の骨、画面いっぱいに拡大された花、、、ようやく到達したパリで、オキーフはアメリカ文化をどう伝えているだろうか。
 わたしがオキーフに出会ったのは、15年ほど前のシカゴ美術館だ。大きな黄色い葉が瞬時にくっきりと、心に焼き付いた。彼女の見たものが見たくて、何年後かにサンタフェから北へ乾いたプエブロの土地を走り、ゴーストランチとアビキューを訪ねた。アドビの家と、雲のかけらもない青い空があった。
 峡谷、風、光、、人と自然の関わりは、コロナの時代によりいっそう意味深いもののように思える。オキーフの大きな花は、パリの誰かの心にもきっと鮮やかに焼き付くに違いない。

ポンピドゥー・センターの広告動画
→続いて展覧会のツアーが再生される。面白い。(日本語字幕設定可)

半年ぶりの授業、それから2021/10/16

 半年ぶりにお声がかかり、今週、秋学期のクラス授業とオンラインの(アメリカ在住者)プライベート・レッスンが始まった。ずっと気ままに過ごしてきたので、使われていなかった脳の部分が慌てふためいている感じ。どちらも週一回だけど、緊張する時間があるのはよいことかもしれない。

 眠気が覚めたついでに、17日に終了する横尾忠則展に出かけた。
おお、何と濃密濃厚な極彩色の横尾ワールド!
600点に及ぶ大迫力の個展 GENKYOにぐるぐる巻きにされ、へとへとになって帰宅した。もちろんそうした刺激もよいことでしょう。

ペギー・グッゲンハイムの美術館2021/09/13

 Prime Videoで『ペギー・グッゲンハイム:アートに恋した大富豪』を観た。
楽し過ぎて二度観た。

PeggyG
予告動画 (YouTube 字幕)

 鉱山で成功したグッゲンハイム家の父は、ペギーが13歳の時タイタニック号の沈没事故で亡くなった。裕福な親族たちと比べれば財産に恵まれなかったペギーは、21歳の時ニューヨーク市の前衛書店The Sunwise Turnで働き始め、そこで出会った人々(フロスト、ドス・パソス、フィッツジェラルドなど)との交流が、彼女をパリへ運ぶことになる。美術、音楽、バレエ、芝居、「あらゆる芸術革命が花開いた」とコクトーが述べる、1920年代のパリである。
デュシャン、マン・レイ、レジェ、ピカソ、G.スタインとトクラス、キキ、J.ジョイス、E.パウンド、そして、ベケット、、、名前を書き連ねるだけで心が躍り出す。
 マン・レイの撮った、若い日のペギーが素敵だ。

PeggyGbyMR

 『優雅な生活が最高の復讐である』の著者C.トムキンズもインタビューに登場する。まさに、ウディ・アレン『ミッドナイト・イン・パリ』の時代だ。
富豪一族の反逆者、やっかいもの black sheepだったペギーは、1921年から38年のパリで夢のようなボヘミアン・ライフを楽しんだ。
 その後ロンドンでグッゲンハイム&ジューヌ画廊を開いたが、ほどなく大戦が始まり、自力で作品と共に帰国した。ニューヨークでは欧州から脱出しようとする芸術家たちを救い、また同時期、彼らの作品などを(幸運にも)安価に購入することができた。ダリ、キリコ、タンギー、マグリット、ミロ、ジャコメッティ、モンドリアン、ロスコ、、、書いているとさらに気持ちが弾んで、あらすじをまとめたくなるけれど、以下印象深い部分と感想を。

 ペギーはシュールレアリスムと抽象表現主義をアメリカに持ち込んだ先駆者であり、ヨーロッパとアメリカのモダニズムを結びつけた。NYCの今世紀の芸術画廊(1942-47年)における前衛的な数々の展覧会は、戦後のアメリカ美術界に確かな功績を残している。
 そして、運河の水の美しさに魅了されて購入したベネチアの白いパラッツォ 邸宅に、1951年ペギー・グッゲンハイム・コレクションを開く。それは主要な20世紀画家たちの作品を集めた、イタリアでは他に類を見ない美術館となった。

 彼女が現代美術に果たした役割は、その寛大さにおいても比べるものがない。(モンドリアンの助言もあって)ポロックを発見し、住まいと生活費を提供することで、モダンアートの傑作が生み出された。
俳優ロバート・デ・ニーロの両親も画家でありデ・ニーロ・シニアとV.アドミラル)、少なからずペギーの援助を受けたという。
 話は前後するが、戦時中カンディンスキーがペギーにNYCの(伯父ソロモン)グッゲンハイム美術館への紹介を依頼した時、ペギーを好ましく思わない初代館長はけんもほろろにその頼みを断った。対するペギーの返事、
「わたしの目的はお金ではなく、芸術家を助けることです」
そんな経緯の後に、F.L.ライト設計のあの白い螺旋形の(ペギーは駐車場みたいと言った)美術館が、多数のカンディンスキー作品を所蔵することになったとは。
 ペギーは晩年、ソロモン・グッゲンハイム財団に邸宅とコレクション全てを譲渡する取り決めをした。
 
 ペギーの憑かれたような情熱はどこから来たのか。
彼女にはスタインのような優れた直感や洞察、審美眼、ましてや表現力はなかっただろう。彼女はself-made な人だったという。デュシャン他を師として最先端の芸術を学び、夢中になれるものをひたすら追い求めた。
 飽くことなく繰り返される、大勢の芸術家との束の間の情事、7年で終わった最初の結婚生活、次の夫エルンストの側に愛情はなかった。
グッゲンハイム一族としての自尊心を持ちながら、実は内気な世間知らずだったペギーの空虚な心、欠落感を埋めてくれるのはアートだけだった。そうして、自由な美術世界の媒体とも言えるコレクターとしての大きな成功が、人生に深く幸福な意味を与えたのだろう。

 3年半前初めてのベネチアで美術館を訪ねた。広くはない中庭、ジャコメッティの像の少し先に、14匹の愛犬と共に眠るペギーのお墓があった。
パラッツォはグランカナルに面しており、バルコニーの前をサンマルコ広場方向へのヴァポレット 水上バスやゴンドラが行き交っていた。

最近のシニアな読書2021/09/01

 年齢に抗わない
 怯むことなく、堂々と老いさらばえよ!

 NHK100分de名著、7月はボーヴォワール『老い』だった。講師は上野千鶴子さん。上記の2行は、そのテキストの表紙に書かれた言葉だ。
 おう!
思わず腕を振り上げたくなるものの、上野さんのおっしゃる通り、他者の経験ではない自らの老いという現実を受容するのは生やさしいことではない。
 著名な作家、学者、政治家のネガティブな老いの実例が語られる。寿命が伸び多くの割合を占めるようになった高齢者たちを、文明社会はどう処遇するのか。老いてゆく自分にわたしたちはどう向き合うのか。全4回をまだ一度しか見ていないが、考え続けるべき大きな課題だ。なにしろ、刻々と老いているのだから。逃げ場などないのだから。

 というわけで、汗または冷や汗をかきながら読んだ本は、シニアの生活と意識に関連したものが多かった。

おひとりさまの最期 上野千鶴子 (朝日新聞社) 再読した。
  最新刊『在宅ひとり死のススメ』はまだ。図書館予約順位 248番
養老先生、病院へ行く 養老孟司・中川恵一 (エクスナレッジ)
 自分の死、一人称の死は考えたって意味がない
気がつけば終着駅 佐藤愛子 (中央公論新社) 大人物 だいじんぶつ
老人初心者の覚悟 阿川佐和子 (中央公論新社)
 同い年阿川さんの日常感覚
 婦人公論連載中に毎月図書館で読んだはずだが、あまり覚えていなかった。
 同じ婦人公論連載ものの、同年代伊藤比呂美さん著
 『ショローの女』もリクエスト中 予約順位 18番

 気持ちを柔らかくする少し遠い国の本も、並行して読んでいた。
ミッテランの帽子 アントワーヌ・ローラン (新潮クレストブックス)