NYデビュー100年のG.オキーフ回顧展2016/07/24

ジョージア・オキーフ Georgia O'Keeffeの短い動画を見つけた。



NYデビューからちょうど100年の回顧展のようだ。ロンドンのテート・モダンで、10月30日まで。けっこう遠い。行ったことはないが。
TATE MODERN EXHIBITION GEORGIA O’KEEFFE
泰然、超然というより、やはり毅然だろうか。芯が強く揺るがない。

バンクーバーの楽しみは(第15次遠征隊#5)2016/07/09

 旅の後半は初めてのバンクーバーだ。ブリティッシュ・コロンビア大学 UBC の人類学博物館、スタンレーパークのサイクリング、ギャスタウン、グランビル・アイランドなどを楽しみにしていた。小雨が降ったり、バスを乗り間違えたりしたが、ヴィクトリア1日ツアーも含めて、充実した4日間だった。
 バンクーバー美術館ではピカソ展が開かれていた。従来の時代区分ではなく、ピカソが関わった女性たちをテーマしたもので興味深かった。改装中のフロアもあり、カナダの先住民 First Nations と強い繋がりを持つエミリー・カーが見られなかったのはちょっと残念。宿題としよう。
街ではジャズ・フェスティバルも開催中で、迫力あるボーカルやギターを中心部の広場で聴くことができた。
 旅行では、食べ物・飲み物もおろそかにできない。せっかく行くからには、高級じゃなくても、その土地のものを試さなくちゃね。ワイオミングにはバッファロー・バーガーやハックルベリー・アイスクリームがあったが、ここではカナダ名物プーティン、ジャパドック噂の大根おろしドッグ、やっぱり薄い Tim Hortons のコーヒー、シーフード、fish & chipsなどを味わった。けっこうジャンク。

 ホテル1階のアイリッシュパブは、ユーロサッカー観戦で連日大騒ぎだった。
comfortinn

 ひとつひとつゆっくり眺めたい、UBC人類学博物館。ハイダ族、ヌートカ族、クワクワカ'ワク族、、太平洋沿岸部の先住民資料をまとめようと思っている。
ubcm

 観光客が蒸気時計を取り囲んでいる、ギャスタウン
gastown

 いい声だなあ、お名前はまだ調べてません。
jazzfes

 スタンレーパーク入口近くに貸し自転車屋が並んでいる。ここは3−5時間18ドル、ヘルメット付き。
bicycle

 走り始めて数分の所有名スポット、トーテムポール群。
stanleypark1

 灯台好き、喜ぶ。Brockton Point Lighthouse
stanleypark2

 約2時間で公園をぐるりと一周後、イングリッシュベイのイヌクシュクまで足を伸ばした。古代イヌイット文化の石積みがバンクーバー・オリンピックのシンボルとして使われ、今では友好や歓迎を意味するものになった。
inukshuk

グランドティトンの山々(第15次遠征隊#2)2016/07/01

 そこにあるのは山と湖と川、イエローストーンのように変化に満ちた景観がわたしたちを驚かせるわけではない。けれど、帰国してみると、最も深く心に刻まれているのは峻厳なティトン連山なのだった。
 国立公園の公式マップには、20を超える景観ポイントが示されている。幾つかのポイントに立ち寄り、その度に息をのんだ。

 ジェニー湖 Jenny Lake から
Jennyというのは毛皮狩猟者リチャード・リー  Richard Leigh(またの名はBeaver Dick)の妻になったショーショーニー族(サカガウィアと同じ)の女性の名、とポイントの説明板に記されていた。ディックは1870年頃行われたイエローストーン地区ヘイデン地理調査のガイドの一人だったという。
jennylake

 スネーク川沿いのオクスバウベンド Oxbow Bend Turnout から
"11,000 summers in the Tetons"という説明板が立っていた。現在ここを訪れる年間数千人の観光客同様、1万年以上前からネイティヴ・アメリカンたちもこの「雄牛曲がり」で夏を過ごし、木の根や果実、道具として使う黒曜石などを集めたという。
oxbowbend

 アンテロープ・フラッツ道路 Antelope Flats Road から
有名な撮影ポイントらしく(映画『シェーン』ロケーションもこの近く)、本格カメラを持った人たちが三脚を立て真剣に4000mの山と向き合っている。
ここにはかつてモルモン教徒の集落があり、20数家族が助け合って暮らしていたそうだ。残っているのはこの納屋、小さな小屋とフェンス。そして厳しく美しいティトンの山々だ。
antelope

 もしイエローストーン周辺へ行くことがあったら、最低半日はグランドティトンも予定に入れるとよいと思う。ムース・ジャンクション Moose Junction 近くの小さなトランスフィギュレーション礼拝堂 Capel of the Transfigurationや、穏やかな馬たちのいるカニンガム小屋歴史地区 Cunningham Cabin Historic Site なども足を延ばす価値は十分にある。

 国立野生生物博物館 National Museum of Wildlife Art では、ちょうどアンセル・アダムスとジョージア・オキーフの写真展が開かれていた。ラッキー。
もう少し時間があれば、ジャクソン・ホールの歴史博物館 Jackson Hole Historical Society & Museum にも行きたかった。アメリカ旅行で面白いのは、本や映像では見つけられない、その土地だけのローカルな歴史なのだ。

少しずつフランク・ロイド・ライト2016/05/29

 先週、友だちと池袋の自由学園明日館を見に行った。フランク・ロイド・ライト(1867-1959)設計の建物だ。
 FLライトという言葉を初めて聞いたのは、1970年サイモン&ガーファンクルの曲 "So Long, Frank Lloyd Wright" だが(わたしたち世代の共通項だろう)、それが著名な建築家の名前であること、アート・ガーファンクルが建築専攻だったこと、"so long"の意味は後からゆっくりやって来た。
 それからずいぶんと長い時間が過ぎ(本当に!)FLライトはいつの間にか気になる項目の一つになって、いくつかの場所を訪ねている。普通の人が目をパチクリするような、劇的な生涯を送った人物でもあるのだ。備忘メモをつけよう。

  2005年、シカゴのルッカリー(1888年建築)の前を通った(だけ)。映画『アンタッチャブル』の撮影にも使われたこの美しいビルは、1905年にライトがロビー部分の改装を設計したそうだ。The Rookery Light Court
Rookery

 2007年秋、シカゴ郊外オークパークの自宅とスタジオを見学した。
FLWstudio

自宅ライトが22歳の時建てたごく初期の作品だ。(1889年)
ここで6人の子供達が育った。中は撮影禁止だったが、工夫を凝らした楽しいプレイルームが印象に残っている。
FLW2


 2008年秋、NYC グッゲンハイム美術館内をカンディンスキーを探してぐるぐる歩いた。 Guggenheim Museum (設計は1945年頃、完成はライト没後の1959年history
FLW3

FLW4

 同じ旅行で、メトロポリタン美術館2階通路に窓の意匠デザインを見つけた。
window(1912年)The Met fifth Avenue Gallery
FLW5


 2012年秋、愛知県の明治村へ旧帝国ホテル(1923年完成)を見に行き、
FLW6

大谷石のタイルデザインを見上げた。
FLW7


 そして、先週の明日館(1921年完成)。帝国ホテルのために日本に滞在していたライトに、弟子の遠藤新が自由学園の創立者羽仁夫妻を紹介したという。
FLW8

FLW9

 深い庇、緩い勾配の屋根、光を取り込む連続した窓、仕切りの少ない広い空間、自然に溶け込む色合い、というプレーリースタイルは、シカゴ大火(1871年)後のシカゴ建築ブーム、鋼鉄のシカゴ派を経て生まれた真にアメリカ中西部的な建築だ。
ライトのステンドグラスや家具デザインはモダニズムそのもので、華美な装飾のない直線と図形からできている。バウハウス、ウィーン分離派、アールデコ、ル・コルビュジエ、20世紀のこの時代には各地で新しいものが次々と生まれた。どれも好きなスタイルだ。
 映画『ガタカ』の撮影が行われたカリフォルニア州のマリン郡庁舎(1957年、ライト90歳の作品)も、いつか見に行ければと思っている。

春のシドニー旅行#22016/04/08

 「春の」というタイトルだが、南半球は初秋だ。4泊7日(機中2泊)旅行の2日目からは降ったりやんだりの日が続いた。この季節にはよくあることらしい。
市内で行った場所をランダムにまとめておこう。

こんな2階建てのシティレールで
cityrailsydney

ザ・ロックスの週末マーケットへ
浴衣姿のテルテル、晴れ女パワーを発揮してくださーい。
rocksmarket

ハーバーブリッジの足元まで歩き、自分で焼くステーキ屋 Phillips Foote でオージービーフをしっかり食べ、オペラハウスを眺め
circularquay

artNSW

アボリジニ・アートの部屋、現代アーティストの シドニー・ノーランもよかった。
artNSW2

地球は平らじゃない_スタインの絵本 その22016/02/20

 税関事務所でわずかな時間クレメント・ハードの挿絵に目を通しただけだったにも関わらず、スタインは絵画に対するいつもの慧眼ぶりを発揮した。アメリカン・インディアンの少女っぽいローズをもう少しフランス風に描いてほしい、という要望が伝えられた。ハードは一年がかりで挿絵を仕上げた。

 ローズ色と青の本が完成した。1939年のことだ。出版時期に合わせて、ニューヨークのW.J.スローン百貨店から子供部屋用の小さな敷物も販売された。
さらに壁紙が作られるとスタインはたいそう喜び、「パリの家の二つの部屋には "Pigeons on the Grass, Alas" の壁紙が貼ってあるけれど、別の部屋を「地球は丸い壁紙とラグで飾りましょう」とハードに手紙を書いた。

steinrug

 この絵本に対する評判は様々だった。繰り返しの多いスタイン文体でからかう批評も多かった。しかしNYタイムズやNYヘラルド・トリビューンは、文章のリズムが子供たちの話し方に近いので声に出して読めば幼くても難なく物語を追えるだろう、と好意的だった。
ハードは確かな仕事をしただけでなく、スタインとの間に温かい関係を築いた。二人の手紙を、現在イェール大学の図書館資料Beinecke Digital Collectionで読むことができる。

 最も有名な"Rose is a rose is a rose is a rose." は本の扉と第26章に置かれている。1922年の"Sacred Emily"以来スタインが好んで何度か書き、しばしば引用されて広まったフレーズだ。扉では単語が丸い円を作り、第26章ではローズが自分の名前を木にぐるりと彫って「薔薇は薔薇であり、薔薇であり、薔薇である」文が繋がっていく。わたしが知った最初のスタインのフレーズもこれだ。

roundstein
 1986年にはサンフランシスコの書店アリオン・プレスが、実際に丸い形の本を出版したそうだ。ポプラ社の翻訳『地球はまるい』も、オリジナルのローズ色と青の丸いイラストと落石八月月氏のリズミカルな翻訳が楽しい。

参考:
PaperBlog, Gertrude Stein: the World Is Round Francis Rose Illustrations

地球は平らじゃない_スタインの絵本 その12016/02/03

 『地球はまるい』"The World Is Round" 75周年記念版の本の中には、オリジナル版復刻のローズ色絵本部分の前後に、その出版をめぐる話が置かれている。
前書きは挿絵画家クレメント・ハードの息子、サッチャー(同じく挿絵画家)によるもので、地球は平らじゃない"The World Is Not Flat" というチャーミングな題のあと書きはクレメント・ハードの妻イーディス・サッチャー・ハード(絵本作家)によって1985年に書かれたものだ

worldisroundste

 1930年当時、子供の本はまだ19世紀の伝統から抜け出せず、読めるのはどこか遠い国のおとぎ話ばかりだったという。バンクストリート教育大学の“here and now”(ここで今)は、子供たちの毎日にこそ発見と驚きがあるのだという観点に立ち、新しい児童文学を作り出そうという運動だった。G.スタインの同窓生ルーシー・ミッチェルは教育大学の父兄であるスコット一家に実験的な児童書の出版を持ちかけ、ヤング・スコット・ブックスが1938年に創業された。マーガレット・ワイズ・ブラウンなどの新しい本は間もなく広く受け入れられ、絵本の出版ブームが始まった。

 数冊の本が成功した後、スコット兄弟とM.W.ブラウンは誰か大人の本の作家が新しい子供の本を書いてくれないものだろうか、と思い立ち、ヘミングウェイとスタインベックとG.スタインに依頼の手紙を送った。
ヘミングウェイとスタインベックは興味を示さなかったが、スタインからは喜んで書かせていただく、いや実はもう『地球はまるい』という本をほとんど書き終わっているという返事が届いた。アリス・B・トクラス後に出た本が好評だったとは言えず、前衛的な作品を引き受ける出版社を探しあぐねる時期でもあったようだ。

 届いた原稿を息を殺しながら読んだスコットたちは予想通りスタインの文体が子供にとって難しいのは確かだが『地球はまるい』にはどこか素晴らしいものがあると話し合い、出版を決めた。
ところが、出版の作業が進むにつれて幾つかの問題が起きた。まず、スタインからピンクの紙に青いインクで印刷せよという明確な指示が届いたことである。主人公ローズの色でなければならないし、スタインは青が好きだからというわけだ。当時の印刷技術には難題だった。
また、長年の友人である画家のフランセス・ローズにイラストを任せたいという希望が伝えられた。フランセス・ローズは後に『アリス・B・トクラスのクックブック』のイラストを担当したが、決して子供むきとは言えない。スコット社としては不本意な提案を受け入れたくなかった。候補者数人の試作品がフランスに住むスタイン宛に送られた。絵画輸入にかかる関税が問題になったが、スタインは挿絵を検討することができ、若いクレメント・ハードが選ばれた。