我々はどこから〜生々流転 ― 2012/12/12
忙しかった。
学期末が近づき、K校午後クラスが終わって、ほっと一息ついている。
分厚い美術の参考書は、何とかポスト印象派ゴーギャンまで読み進んだ。
『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』
濃密な南国の空気の中に描かれる時間の流れは、絵を見ているこちら側にこそ情け容赦なくもたらされているわけで、抗いようがない。
とは言え、絵と向かい合う時に沸き上がるのは無力感ではなく、諦念でもなく、何か言葉にならない透明な感覚なのだった。
それは、誕生日に国立近代美術館で、横山大観の『生々流転』を見ている時にも感じたものだ。


このところ、鬱々とした気持ちが続いていた。エンプティネスト・シンドローム(空きの巣症候群)だと、自分に正直に認めよう。息子は一人暮らしを始めたし、社会人になった娘も飛び回っている。母親は空虚なのだ。忙しくても紛れようがない。寂しさが北風のようにびゅーびゅー吹きまくる。
もちろん、本や音楽はそれを埋めてくれるものだ。ヤン・マーテル『パイの物語』のきびきびした描写がよかった。父の本棚にもあったカフカの『城』をiPadのキンドルで読んだが、一向に行き着かないだらだら感がよかった。全体が長い一曲みたいなディランの新しいアルバムもいい。
でもそれらにまして、絵が有効であることは不思議だった。
我々はどこへ行くのか...
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