10月のダブリン文学散歩② ― 2025/12/01
4日目午前、聖パトリック大聖堂の前でCさん夫妻と待ち合わせした。
12世紀に建てられたゴシックのカセドラルはイギリスの宗教改革などを経て、16世紀にアイルランド国教会になったが、長い複雑な歴史を持つようだ(正直なところ、ほとんど理解していない)。
聖パトリックは、もちろん、アイルランドにキリスト教を広めた守護聖人、緑色のクローバー(シャムロック)がシンボルですよね。

『ガリバー旅行記』で知られるジョナサン・スウィフトは、18世紀前半この大聖堂の首席司祭だった。大聖堂内の彼のお墓には、妻ではない不思議な関係だったステラも一緒に埋葬されている。数年前に考古学者と科学者たちが、彼らの生前の姿を再現した。なかなかのナイスカップル。

ヴァイキングの砦跡に建てられたダブリン城は、17世紀後半の大火事で被害を受けた後に再建され現在の建物になった。何世紀もの間イギリスの支配下にあったアイルランドの独立は1922年。独立運動の中心人物マイケル・コリンズがここで調印を行い、城は権威の引き継ぎ/自由独立という歴史的な意味を持つことになった。
(旅行後にリーアム・ニーソン主演の映画『マイケル・コリンズ』を見た。闘争に挟み込まれるエイダン・クインとジュリア・ロバーツとの三角関係が余分かも?)

さかのぼれば、アイルランド独立戦争の始まりは1916年のイースター蜂起だった。
義勇軍本部の置かれた中央郵便局GPO内の博物館に行ってみた。

市民軍の指導者マルキエビッチ伯爵夫人について、係員が熱く説明している。蜂起は失敗に終わり、首謀者コノリー達は処刑されたが、独立への流れは加速した。
マルキエビッチ夫人はのちに政界に出て、ヨーロッパ初の女性大臣になったという。

ダブリンに来たら、アイリッシュ・パブに行かなくちゃ。そしてエールを飲んで、音楽を聴かなくちゃ。わたしたちの入った店では、若い頃のディランに似た青年がハーモニカとギターで懐かしいフォークソングを歌っていた。

一番有名なのは、この赤いテンプルバー、ここは昼間でも120%の満席だ。のぞいてみたら、大勢の立ち見客がギネス片手にアイリッシュ音楽のバンド演奏を聴いていた。
一番の繁華街グラフトン通りには、あちこちにストリート・ミュージシャンがいる。エド・シーランの"Perfect🎵"が始まると、女の子たちが数人集まってきて一緒に歌い出した。ジョイスの『ダブリナーズ』でも、二人の若い男がこの通りをぶらぶら歩いていたっけ。

10月のダブリン文学散歩① ― 2025/11/29
10月中旬、アイルランドのダブリンに行った。
カタール航空ドーハ経由で(バジェット・トラベラーは計24時間かけて)成田出発翌日の昼過ぎ、町の中心部に近いホテルに到着。ひと休み後まず向かったのは、事前にNHK「街歩き」などで予習しておいたこの古本屋だった。
Ulysses Rare Books

ダブリンと言えばジェイムズ・ジョイス、ジョイスと言えば『ユリシーズ』。
その初版本をガラス越しに見せてもらったのだけど、実は申し訳ない。『ユリシーズ』読んでません。丸谷才一さん訳『若い芸術家の肖像』を大昔に読んだ記憶がある。今回、柳瀬尚紀さん新訳『ダブリナーズ』で旅の予習をした。それはもうどこにもない過去のダブリンではあるけれど。
ユリシーズ初版本に興味を持ったのは、出版がパリの初代シェイクスピア・アンド・カンパニー書店の店主シルヴィア・ビーチによるものだったから(これがロストジェネレーション、G. スタイン、ヘミングウェイに繋がってゆく)。
Ulysses Rare Booksカウンターの女性店員さんも、パリの2代目現シェイクスピア・アンド・カンパニー書店に足を運んだと言っていた。
「ものすごい混雑でしたよ」

2日目、現地1日ツアーに参加した。

目的はモハーの断崖(絶景という言葉はこんな景色のためにある)。クリックで拡大
そして、アイルランド西海岸の港町ゴールウェイだ。
800年の歴史を持つアイリッシュ・パブ The King's Head


ツアーバスは、あちこちに羊が群れるアイルランドの丘陵地帯をゆるゆると走ってゆく。ツアーガイドの癖のあるアイルランド英語を理解しようとしているうちに、フランク・マコート作『アンジェラの灰』の主人公フランクが悲惨極まりない子ども時代を送ったリムリックの郊外を通り抜けたようだ。
ダブリン旧市街のセント・スティーブンス・グリーンという公園には、いくつかの銅像が立てられている。
コンスタンス・マルキエヴィッチ伯爵夫人 はアイルランド独立戦争の闘士だった、ということをブレイディみかこさん『女たちのテロル』からの流れで知った。通称マダムは、1916年の イースター蜂起 の中心人物だったという。

ジェイムズ・ジョイスも

ヘンテコリンだけど魅力的だった(と想像する)オスカー・ワイルドの像は、少し離れたメリオン広場の角にあった。

アイルランドの ジャガイモ飢饉 Potato Famine は、19世紀半ば1845年から49年のことだった。未曾有の大飢饉により、アイルランド人口は4分の1近く減少した。何ということだろう。このEdward Delaney's Famine Memorial以外にも、市内にはいくつかの飢饉記念碑がある。

わたしの到着日に合わせてドイツから来てくれた(元オンラインの学生)Cさん夫妻と、トリニティ・カレッジや国立美術館を楽しく回った。

これが、世界一美しい聖書の写本 ケルズの書 入り口(内部は撮影禁止)

それから、トリニティ・カレッジの歴史ある図書館を歩いた。素晴らしい!
世界の美しい図書館リストには必ず入っています、当然でしょう。
6月の大阪万博 ― 2025/06/13
1週間前、大阪万博に行った。晴れのち曇り、気温29度の夢洲は、恐らく平均的な人出だっただろう。つまり、どこもかしこもかなりの混雑,,,

前売りチケットと往復航空券を購入し、ホテル1泊を予約したのは3ヶ月も前だったのに、詰めが甘かった。1ヶ月前のパビリオン予約抽選をうっかり逃し、要予約の入場も西ゲート10時になってしまった。慌てて1週間前抽選に応募したけれど、当たったのはカナダ館午後3時だけ。シグニチャーパビリオンのロボットやiPS心臓などは、よほど運がよくないと事前予約は無理だろう。

というわけで、予約不要のコモンズ館3館などに入場。いずれも大勢の人でにぎわっていたが、それぞれに興味を引く展示が並んでいた。ジャマイカ・ブースで夫はフセイン・ボルトの像と、わたしはボブ・マーリー像と写真を撮るとかね。
ずいぶん並んだけれど、(目的のひとつだった)近畿大学水産研究所の近大マグロ丼が食べられたのもよかった。おいしい。お薦めします。レストラン予約可、だったらしい。
大屋根リングは、実際に歩いてみれば、なかなか見事な建築物だった。制服を着た修学旅行の学生たちが、ぞろぞろと通り過ぎていく。1970年の大阪万博には、わたしも高校の修学旅行(大阪・京都・奈良)で行ったのだ。
パソコン、スマホ、VR、AR、OpenAI、、あの頃想像していなかった未来が来たのかしら?
それにしても、なんという時間の早さだろう。
モロッコ帰りにイスタンブール ― 2025/05/26
提供された旧市街の4つ星ホテル(ツイン、朝食付き)から歩いて行けるのは、まずブルーモスク。当たり前過ぎるけど、やはり外せない。
様々な国からやって来た観光客の長い列に加わり、根気よく並んで入場した。うっとり。
もちろんアヤ・ソフィアにも。
そして、地下宮殿にも。


ギュルハネ公園を散歩すると、トルコの国花チューリップが色とりどりに咲き誇っていた。
3月後半から、イスタンブール市長拘束にともなう抗議デモが続いているというニュースが報道されており少し心配していたが、旧市街は特に問題なく平穏だった。

この街でも「ニイハオ」「ピカチュー」、「ニイハオ」「ピカチュー」の応答が続く。
トラムでガラタ橋を渡り、ガラタ塔の下まで登ってみた。ふう。
イスタンブールは娘もわたしもそれぞれ2度目だが、再訪を楽しみにしていたグランバザールに以前ほどトルコらしさが感じられなかった(つまり、ややショッピングモール化していた)。
でも、このガラタ塔付近には、雑然としたトルコっぽさ(勝手なイメージではある)が残っていたと思う。

トラムで戻り、フェリーターミナルのあるエミノムに並ぶフィッシュ・サンドイッチ屋へ行った。カモメが飛び、サンドイッチ屋のおじさんたちの大声が響いている。赤いピクルスを売る若者が歩きまわる。サバを焼く匂い、ボスポラス海峡を眺めながら食べるフィッシュサンドは最高だった。
4月のモロッコ9日間⑥マラケシュ旧市街 ― 2025/05/24
日が沈む頃マラケシュに到着した。
カサブランカ、首都のラバド、フェズに続く第4の都市だ。
メディナの門に近いリヤドは少し古びており、すぐ横の空き地からサッカーをする少年たちの声が響いていた。

夜のジェマ・エル・フナ広場に足を伸ばした。マラケシュ旧市街だけでなく、この空間が無形文化遺産だそうだ。大勢の人でにぎわい、ざわめく広場。何をしているのかわからない人だかりがあちこちにできている。
アジア人は少ないので目立つのかもしれない。
何度も「ニイハオ」「ニイハオ」と呼びかけられ、娘が「ピカチュー」と答える。

屋台で夕食をとることにした。座って食事をしているのはほとんどが外国人観光客だ。
ケバブ、焼き野菜、モロッコサラダ、、おいしい?うーむ、、

6日目の朝、マラケシュの公認ガイドがやって来た。彼も資格証を下げ、きちんと質問に答えてくれる。ジャマ・エル・フナの屋台でご飯を食べたことはないそうだ。やっぱりね。

午前中、バヒア宮殿とベン・ユーセフ・マドラサ(神学校)、そしてスーク内を案内してくれた。

昼食後はさらに娘と二人、広いスークを歩き回る。マラケシュはフェズほど迷路化していないし、歩いても歩いても飽きることがない。とは言え、夕方にはくたびれて、荷物も増えて、ホテルに戻った。




翌朝、リヤド横に車がやって来た。フライト時間に合わせてカサブランカの空港へ送ってくれる。高速道路を通って、所要時間は2時間半ほど。
中身のぎっしり詰まった7日間のモロッコツアーが無事に終了した。

4月のモロッコ9日間⑤渓谷からマラケシュへ ― 2025/05/24
4日目、メルズーガでサンドボードとターバンおじさんサイード氏の砂丘クルーズを体験した後、ダデス渓谷へ向かう。途中の町で、地元の市場に立ち寄った。
野菜やスパイスや道具類、衣類だけでなく、馬や山羊の売買も行われている。


カスバ街道を通って、トドラ峡谷へ

古いカスバの中に絨毯組合がある。丁寧に織られたラグを何枚も広げて見せてくれた。


街道沿いの町の高台にあるホテルに宿泊した。
アトラス山脈の南に位置するオアシス都市のひとつだ。これぞモロッコ、という眺め、
レストランでは、スイスからのシニア団体客がゆっくりと夕食をとっていた。
5日目、アフリカのハリウッド、ワルザザードの映画スタジオ(アトラス・コーポレーション・スタジオ)を見学した。
ここはエジプトを舞台とした作品が撮影された場所(『ナイルの宝石』、『ハムナプトラ』など)

そしてこれは、『グラディエーター』で奴隷にされたマキシマスが閉じ込められた地下牢(として使われたセット)、ガイドの説明に皆ほお〜とうなずいた。

マグレブ地域で、アオシスの住民たちが居住した村をクサールというらしい。そのクサールのひとつ、アイット・ベン・ハドゥが世界遺産として保全されている。サハラ隊商交易の中継地として栄えた村落だという。
軽々と登ってゆくアジズと娘のあとを、ふうふう言いながら追いかけた。何とか頂上に到着。去年のパルテノン同様、かなりの苦行だった。登れるうちに、歩けるうちに遠出しないと。

アトラス山脈を越えてマラケシュまでは180km、高低差の大きい曲がりくねった道路を、若いドライバーはびゅんびゅん飛ばして進んでゆく。スリリングな時間だった。
4月のモロッコ9日間④メルズーガ砂漠 ― 2025/05/23
モロッコに雪が降る高原の町があるとは全く知らなかった。建物はスイスの山小屋シャレー・スタイルだ。って、まだ行ったことがないけどスイス。
イフレイン周辺にはその昔、ライオンも生息していたという。古代ローマの闘技場で使われたのは、北アフリカの美しいたてがみを持つバーバリ・ライオンだった。

車から見る景色は刻一刻と変わっていく。高原から牧草地へ、そして乾燥した赤土色の荒地へ。モロッコ旅行の楽しさの一つは、思い出してみれば、その変化に満ちた風景だった。
途中にはオリーブオイルの工場、バラ栽培の町(ローズウォーター工場)などがあり、もう一つの楽しさで、少しずつ荷物が増えていくことになる。
エルファードは化石で有名な場所だ。通り沿いに採掘場や加工・販売の店が点在する。アトラス山脈の東側には古代から中世代の地層があり、そこで三葉虫やアンモナイト、さらには恐竜などの化石が豊富に産出される。映画『ハムナプトラ』は、エルファード周辺で撮影されたという。

このツアーのハイライトは、なんと言ってもキャメル・トレッキングだろう。
夕刻のメルズーガで、ラクダが2頭わたしたちを待っていた。メルズーガ砂丘は大サハラ砂漠の入り口にあたる。


ターバンを巻いた少年に先導されて上ったり下ったり、揺れながら砂丘を小一時間進むと、Itran Royal Campの白いテント群が見えてきた。
いつものように高い位置から注ぐミントティーが出され、テントの客室に案内される(スーツケースは車で既に運ばれていた。)

夕食後には焚き火を囲んでモロッコ音楽が演奏された。最後の曲で、宿泊客たちは勧められるまま輪になり、(見よう見まねで)ダンスをする。
天気はあいにくの曇りで、期待していた満天の星空は見られなかったが、忘れ難い夜になった。

翌朝、日の出と同時に起き出して、砂に足を取られながら、近くを散歩した。
見よ、この大砂丘を!!
深呼吸し、心の中でバケットリストの1項目にチェックを入れた。
砂丘を眺めながらの朝食だ。フレッシュなオレンジジュース、香りの良いコーヒー、モロッコ・パンケーキ、この土地のジャムとハチミツ、、
砂漠のキャンプを、娘と一緒に、これから何度も思い出すだろう。




















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