ナポリを見てから死ね ― 2024/07/06
6月中旬の2週間、ナポリとアテネに行った。バケットリスト項目の、ポンペイとアクロポリス遺跡を歩くためだ。
旅仲間の幼なじみMが「ちょい住みした〜い」と言った。
「うん、いいね」
というわけで、宿泊は両都市ともAirbnbのアパートを予約した。
ナポリ市内の高台にある2ベッドルームの住まい、
このベランダで何回か食事した。向かいに背の高いローマ松(イタリア傘松)があり、建物はその木を護るように造られている。

事前購入の3日間有効 カンパニア・アルテカード (デジタル版)利用で地下鉄に乗り、スパッカナポリ地区へ行った。
マヨルカ焼きの柱が美しい サンタキアラ教会では、ちょうど結婚式が行われていた。
そこには小さい博物館も併設されている。
スパッカナポリ地区には10以上の教会があるけれど、わたしたちが行ったのは(外観は地味、内部はきらびやかな)ジェス・ヌオーヴォ教会、サンタキアラ教会と、(カラバッジオの絵画で有名な) ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルデ教会、そして(サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂) ドゥオーモ の4か所だけ。
何しろ暑いのだ。人でいっぱいなのだ。
どのガイドブックにも「スリに注意せよ」と書いてあったね。シニア2人組は緊張して、斜めがけバッグを抱え込んで歩いた。

なるほどパリパリもちもち、
ノンアルコールの飲み物はコーラ、ファンタ、スプライトしかないけど。

国立考古学博物館 へ
外壁に使われている(ポンペイ発掘の)フレスコ画サッフォーは、とても小さなものだった。

世界史教科書でよく見るアレクサンダー大王のモザイク画は、残念ながら修復中だ。実物大の(部分)展示物でさえ、圧倒的な迫力が感じられた。
紀元前330年頃の歴史的大事件がどのように伝わり、3世紀後のポンペイで邸宅の床を彩ることになったのだろうか。
4日目に行ったカポディモンテ美術館 も半分が改装中だった。エルグレコ、ブリューゲル、ウォーホルのヴェスヴィオは見られない。
けれど、冬にオンラインで教えたドイツ人Cさんがご主人とナポリへ来てくれて、一日一緒に過ごせたのは楽しかった。ルネサンスとバロック絵画は、博識なご主人Hさんの解説付きだ。聖アントニオの舌とかね。
ナポリ湾の向こうに、少しかすんでヴェスヴィオ火山が見える。
これが"See Naples and die"なのか?
市場好きの二人、6日目にピーニャセッカ市場に足を運んだ。魚屋、八百屋、チーズ屋、揚げピザ屋、トリッパ(もつ肉)屋、、色んな匂いがする。

スペイン地区を覗きながら南へ進む。
ウンベルト1世のガッレリアを通り、王宮近くで揚げピザを買いベンチでランチ。周囲に鳩が集まって来た。
何やらイベント準備中のプレビシート広場を通り抜け、サンタルチア地区の海岸沿いを散歩し、たまたまやって来た小さな乗合いボートで卵城を海から見上げた。
街は落書きだらけできれいじゃないけれど、訪れる価値ありのナポリ。スリに遭うことなく、歩いた距離は一日平均11km だった。
「この世にナポリほど美しい所はない」という諺、、いやいや、これからもさらに美しい場所を探しましょう。
ポンペイとアマルフィ ― 2024/07/07
6泊したナポリから、3日目に ポンペイ遺跡 、5日目にアマルフィ海岸へ行った。
当初はどちらも現地ツアーに参加するつもりだったのだが、4月〜6月にオンラインで教えたフランス人のMさん(元歴史教師)が「ガイドについて行くなんてつまらない。自分のペースで歩くべきだ」と宣う。
はい、ではそうします。
ナポリ中央駅から快速電車で40分ほど、ヴィッラ・デイ・ミステリ駅 Pompei Scavi Villa Dei Misteri に着いた。駅に近いマリーナ門から遺跡に入る。

急な坂道をまっすぐ登ってゆくと、古代ローマの広場フォロに出る。たくさんの観光客が行き交い、写真を撮っている。入り口でもらった地図を開き、相談しながら見て回ることにした。

それにしても暑い。広過ぎる。たちまち区画地図のどこにいるのか、わからなくなった。
悲劇詩人の家を進んだ先に塔がある。上から遺跡を眺めた。反対方向にヴェスヴィオ火山が見えている。
悲劇詩人の家にも、このパキウス・プロクルスの家にも犬のモザイク画があった。「猛犬注意」

水分を補給しながら、メナンドロスの家や、赤い壁の家、フォロの浴場など見て回った。

イシスの神殿では、何かの儀式が行われていた。

古代ローマのデコボコした石畳を3時間も歩けば、もうへとへとだ。
出口にはショップを兼ねた展示室があり、フレスコ画や、火砕流で一瞬のうちに命を落とした人々の石膏像などが、ナポリ考古学博物館と同様、無造作に置かれていた。

2022年の特別展「ポンペイ」(東京国立博物館)には行かなかった。
2006年、高校生だった娘と一緒に見たBunkamuraの 「ポンペイの輝き」 が記憶に残っている。鮮やかな色彩と照明が印象深い展覧会だった。あの時、いつか行かなきゃと思ったのか。理由の定かではないバケットリストの謎だ。
アマルフィ海岸へは現地ツアーを利用した。
各国からの参加者20数人がマイクロバスに乗り、海岸沿いのポジターノ、アマルフィ、ラヴェッロを回る。ガイドはイラン出身の(歴史専攻)女子大生だった。
ソレント方向からポジターノに向かう。晴天だ。海が美しい。
ポジターノは、両側に小さなショップの並ぶ細い坂道が海岸まで続いている。ナポリなどからのフェリーが着く港に近い店で、冷たいレモン・シャーベットを注文した。
アマルフィ海岸はコバルト・ブルーの海とレモン畑で有名なのだ。
アマルフィの町に到着。レモンの香りはステキ、でも観光客が多過ぎるでしょ。まあ、自分もその一人だけど。
シーフードフライのランチを取りながら、レストランの窓から混雑する通りを見下ろした。

大聖堂に入ると、中はしんと静かだ。

そして、海岸に出ればこの通り。

このバスツアーで一番気に入ったのは、最終目的地のラヴェッロだった。地区内に車は進入禁止、人が坂道を延々と歩いて町に入る。すると渓谷を挟んで、こんな風景が広がるのだ。
ドゥオーモ前広場に面したカフェで、風に吹かれながらコーヒーを飲んだ。気持ち安らぐよい時間だった。
猛暑のアテネ5日間 ― 2024/07/10
アテネちょい住みは5泊。
空港からUberに乗ってAirbnb前で降りると、出迎えてくれたオーナー夫妻が言った。
「今週は気温が高過ぎるから気をつけて。
アクロポリスは夕方まで入場できませんよ」
あらま!出発前に調べた天気予報と全然違うじゃないの。
6月中旬のギリシャは40℃を超える日もあり、南ヨーロッパを襲った熱波のニュースが主要ネットにも掲載された。
屋上からはこんなふうにパルテノンが見えたけれど、そこに上がったのは到着日の夜だけだ。炎天下の活動で疲れ切っていたのだろう。

翌日の時間指定 アテネ共通チケット が買ってあった。
入場制限が解除される午後5時まで、新アクロポリス博物館で過ごすことにしよう。冷房の効いた最上階から、アクロポリスの丘が間近に見える。

わたしたちと同じようにパルテノンの入場を待つ観光客が、大勢詰めかけている。神話の時代からの展示物だけでなく、笑いかける女神像などデジタル技術も駆使した見事な博物館だった。

午後5時、博物館に近い東の門に、その日のチケットを持つ観光客が列を作った。ゲートが開き一斉に登り始める。暑ささえなければ、もう少し若ければ、どうということもない坂道だけど。
ディオニソス劇場を過ぎると上りになり、(ちょうど音楽フェスティバルの準備中だった=二千余年後にもコンサートが開かれるなんてすごい!)イロド・アティコス音楽堂を回り込み、石段を登って、プロピレア門の柱の間を通れば、パルテノン神殿が見えてくる。

時々立ち止まって水を飲みながら登り、到着までおよそ30分ほどか。
紀元前5世紀半ばに造られた巨大な建築物を、汗だくでただ見上げる。
円柱の上の石の彫刻には、当時色彩が施されていたという。外された彫刻小壁の一部(ラピテス族とケンタウロスの戦いなど)は新アクロポリス博物館で見ることができ、また大英博物館やルーブルにも展示されている。エレクティオン神殿の屋根を支える女神像カリアティードも、6体のうち1体は大英博物館にあるようだ。

アテネは町歩きも楽しい。ガイドブックにはナポリ同様「スリに注意」と書かれていたが、斜めがけバッグをしっかり抱えて、こちらでも無事に過ごすことができた。
(アルテカード有効期限後の)ナポリとアテネの地下鉄チケット販売機をはじめ、他のどんな場所でもクレジットカードが難なく使えたし、現金ユーロは最初に少額をキャッシングしただけで済んだ。
アテネからは サロニコス湾諸島への 1 日クルーズ に参加した。つまり憧れの「エーゲ海クルーズ」というわけだが、予想とは全然違う、大型フェリーで数百人が一緒に3つの島を移動するものだった。ざわざわ、がやがや、とてもにぎやか。まあ、いいけど。
これは大型フェリーから眺めるイドラ島、
この写真のような小型クルーザーをイメージしていたのに。
イドラ島には車がない。唯一の交通手段はロバ。つまり歩いても回れる小さな島だ。

それから、時計台のあるポロス島、ピスタチオの産地エギナ島を回った。

4日目5日目、暑さの中、市内を歩いた。中央市場付近、そしてハドリアヌスの図書館

プラカ地区、モナスティラキ広場とフリーマーケット、ローマン・アゴラ

典型的なギリシャ料理(ムサカ、サカナギ、スブラキ、ドルマデス、ザジキ、タラモ、ギリシャサラダ、タコのグリルなどなど)二人なら色々注文することができて、美味しく楽しい旅だった。が、反省点がひとつある。
暑さで消耗し、中央市場から北へ徒歩20分の アテネ国立考古学博物館 に行かなかったのだ。新アクロポリスにはアテネ周辺の、アテネ国立考古学にはギリシャ全土の遺物が収められている。アガメムノン(じゃないかもしれない)黄金のマスク、ピカソも描いたギリシャ神話の怪物ミノタウロスをいつか見られるかしら。
GoogleアプリArts & Cultureの博物館・美術館には含まれていなかった。けれど、今検索したら、おお、公式サイトに デジタル展示室 がある!
ヴァーチャルに歩いてみよう。よかったよかった。
旅行ルートメモ:
アテネーナポリ間はヨーロッパ内を飛ぶLCCの Easy Jet (イギリスが拠点)を利用した。所要時間は2時間弱。
東京ーナポリはブリティッシュ・エア(ロンドン、ヒースロー経由)で往復した。
ロシア上空を飛べないため、現在ヨーロッパは遠い。(去年はトルコ航空でイスタンブール経由だった。)
往路のロンドン行きは太平洋を北上し、ベーリング海を突っ切ってアラスカをかすめ、グリーンランド、アイスランド方向からロンドンへ14時間。
復路はユーラシア大陸方向、トルコ、ウズベキスタン、モンゴル、韓国上空から羽田へ14時間だった。
ローラ・インガルス・ワイルダーとGHQ ― 2024/07/21
"Prairie Fires"という本を読んでいたら、あなたの名前が出てきましたよ。
(昔の話だから)早熟な子供でもない限り、これは別人ね。
ミネソタから、本のページの画像付きで、そんなメールが届いた。
あはは。早熟じゃないわたし。でも、同姓同名(多分漢字は異なる)の研究者に少し興味が湧いて、ローラ・インガルス・ワイルダーと作品に関する資料を検索してみた。
「思想教育と文学の政治学 -GHQ/SCAPの日本民主化政策とアメリカ西部フロンティア言説の関係性-」という論文が見つかった。
以下、引用させていただきます。
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アメリカ西部と民主主義
GHQ/SCAP日本民主化政策と「西部」はどのように結び付いたのか。GHQ/SCAPは、西部文学に描かれた西部フロンテイアに、アメリカ民主主義の源泉を見出した。連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは、ワイルダーの西部開拓物語について、「『小さな家』シリーズはアメリカの民主主義的生活の理念を実に生き生きと伝えている」と考えていた。 彼は自ら『小さな家』シリーズの日本での翻訳・出版、学校教材としての利用普及を薦めている。この背景には、『小さな家』シリーズの熱烈な愛読者であったマッカーサーの妻、ジーン・マッ カーサーの夫への強い推薦があったと言われている。
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とても興味深い話だ。
昭和中期に生まれたわたしたちは、そんな経緯で入ってきたアメリカ文化に大きな影響を受けて育ったというわけだ。
もうずいぶん前のことになるが、娘を連れてローラ一家が住んだいくつかの場所を訪ねたことがある。
物語の始まり「大きな森の小さな家」は ウィスコンシン州のぺピンにある。
現在見られるのはPaが建てた丸太小屋の複製だが。
ミネソタ州ウォルナット・グローブにあるローラの博物館
その町では毎年夏の夜に、野外ミュージカルが行われる。テーマは、プラムクリークでの(叶えられた夢の)2年間だ。本のシリーズにはその後の苦難の時代も描かれている。
友人が送ってくれたページの"Prairie Fires"は、キャロライン・フレイザーによるローラの伝記で、2018年にピューリッツァー賞伝記・自伝賞を受賞したようだ。
副題は「ローラ・インガルス・ワイルダーのアメリカンドリーム」

揺らぐ二十一世紀、ニュースを見れば日々不安がつのる2024年。かつてアメリカの民主主義というものが、昭和世代の遠い憧れだった時代がありましたっけ。
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