Bangkok 2024 ― 2024/02/25
2月中旬、家族でバンコクへ出かけた。
娘Nがタイ支社の駐在員になってから、早くも8年たつ。様子を知りたくて何回か訪ねているうちに、ずいぶんと身近な国になった。
今回、息子と夫はBTS(バンコク高架鉄道)1日券を使って、郊外を中心に散策。(わたしたちの住んでいる沿線でいうと、蘇我から南船橋辺りまで、という表現になるらしい。気に入ったのは稲毛海岸とのこと、、謎⁈)
娘とわたしはまだ見ていなかった寺院などを回った。
ワット・パクナームのジャイアント・ブッダ
ちょうど春節に当たり、大勢の中国人観光客が歩いていた。
ストゥーパ(仏舎利塔)の一番上に、この見事な天井画がある。
仏陀の生涯が描かれているそうだ。
シルク王ジム・トンプソンの家
個人での見学はできない。タイミングよく始まったばかりの日本語ツアーに参加した。
6軒分の家から建てられた美しい高床式の住まいだ。
数年前にも一人で来たことがあったが、見学ルートや展示品が変わっていた。
トンプソン氏の審美眼で集められた家具や古美術品がすてきだ。
今回は建築家でもあった彼による邸宅図面が目を引いた。
シルク・デザインの鮮やかな色彩にも、うっとり見とれてしまう。
少し離れたBTSの駅の近くにあるジム・トンプソンのアウトレット・ショップにも足を運んだ。
美しいファブリックはm単位で買うこともできるようだ。
タペストリーにする?フレームに入れる?ん〜、どうしよう。
モノを増やしたくないシニアは最近の旅先で必ず迷い、買わずに帰って後悔している。
12月のラオス5日間 ― 2023/12/17
秋の中欧旅行⑤ワルシャワ ― 2023/11/09
クラクフから快適なポーランド特急で2時間15分、9月27日の夕方、この旅行の最終目的地ワルシャワに着いた。
中央駅からどのトラムに乗ればホテルに行けるのかはGoogle mapが教えてくれる。でも、そのトラムが広い駅構内のどこから出発するのかわからない。うろうろ歩き回った末二人連れの若者に尋ねると、親切に階段上のトラム乗り場まで荷物を運んでくれた。
翌日から3日間のメモ:
まずは市内中心部のホテルからバスに乗り、旧市街へ向かった。
おお、ここが王宮広場。
WWIIの時ワルシャワ市街は徹底的に破壊されたが、それを予見して、18世紀の王座その他貴重なものは安全な国外に保管されていたのだという。THE ROYAL CASTLE IN WARSAW – MUSEUM
通りを進んで、旧市街広場に出た。
瓦礫をひとつひとつ拾い集めるなどして、元通りに再建された建物が四方を囲んでいる。
広場に面してワルシャワ歴史博物館 Museum of Warsaw があり、裏通りにはひっそりと、戦後の並々ならぬ努力による復元の様子を記録をした博物館 Monument Interpretation Center があった。
さらに歩いて16世紀の要塞バルバカンを通り抜け、マリ・キュリー博物館 The Maria Skłodowska-Curie Museum に入った。キュリー夫人の生家に作られた博物館は、校外学習の小学生たちでにぎやかだった。
ラジウム・クイーンは(RBG同様に)ラジカル・ウーマンでもあっただろう。
1944年8月1日から2ヶ月間のレジスタンス武装蜂起がどのように行われ悲劇的な結末を迎えたのか、詳細な記録が展示されていた。
20数万人の犠牲者を出した蜂起失敗の後、ドイツ軍がこの町を爆撃し焼き尽くしたという歴史は、少し前であれば(繰り返されることのない)遠い過去のように思えたのだが、、。
そして、スターリンの贈り物、文化科学宮殿のタワー viewing terrace に登った。
ポーランドユダヤ人歴史博物館 POLIN Museum of the History of Polish Jews はワルシャワゲットーがあった地区に建てられている。フィンランドの建築家ライナル・マハラマキによる建物外部は改修中だったが、博物館内は心動かされる展示が続き、(今回の旅行中唯一の日本語オーディオガイドもあって)3時間ほどを過ごした。
そうそう、博物館や美術館のパンフレットやオーディオガイドは、アジア系言語の中国語/韓国語はあっても、日本語は(訪ねた限りでは)どこにもほとんど置かれていないのだ。寂しいですねえ。
コペルニクスセンター科学センター Copernicus Science Centre でプラネタリウムに入った。が、星座の説明はポーランド語でチンプンカンブンだ。
館内には会話できるコペルニクスのロボットがいた。英語などヨーロッパ言語は通じるが、
「日本語、わかりますか」と話しかけると
「ニホンゴ、ワカリマスカ &×#+〜×、、」
わけのわからない呪文が返ってきた。
16世紀の偉人、地球は回っているコペスニクスの像は、市中心部の広場で穏やかに周囲を見守っている。
ポーランドのもう一人の偉人、ショパンの博物館にも足を伸ばした。
数年前のショパンコンクール・セミファイナリスト、Szczepan Kończal の短いリサイタルがあり、美しい演奏を聴くことができた。
柱の中にショパンの心臓が納められた聖十字架教会に入ると、静かにミサが行われていた。ここもまた、戦後に再建されたのだ。ポランスキーの映画に荒廃したこの通りがあったのを思い出した。
帰国日の早朝、ホテルのマネージャーが車で空港まで送ってくれた。前日までとは違い、どの通りにも数台のパトカーが並び警察官が立っている。
聞いてみると、その日曜日、自由のための大規模なデモが予定されているのだという。
「じゃあ、今朝帰るのはちょうどよかった」
「自由が好きじゃないの?」
「いやいや、道路が混んじゃうでしょ」
「そうか、あはは」
帰国後、その集会が100万人規模であったこと、その後に行われた総選挙でリベラル勢力による政権交代が実現しそうなことが(日本の新聞では地味に)報道された。知らないことが本当に多過ぎる。
旅行記録はここまでとしよう。(これまで全く理解していなかった)複雑に入り組んだ中欧の歴史を、まだぐずぐずと調べ続けているんですが。
秋の中欧旅行④クラクフとアウシュヴィッツ ― 2023/11/05
プラハから私鉄特急 Leo Express に乗って、ポーランドのクラクフに到着した。所要時間はおよそ7時間、到着は夜の10時半過ぎだ。
翌月曜日、アウシュヴィッツ=ビルケナウの現地ツアーに参加した。クラクフ市内から送迎マイクロバスで約1時間、オシフィエンチム市郊外のアウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館に着く。ガイドが自己紹介をし、30数名の参加者に入場券とヘッドホンを配った。様々な言語グループのガイド付きツアーが、間隔を置いて組まれているようだ。
アウシュヴィッツ第一強制収容所の入り口
ARBEIT MACHT FREI
「働けば自由になる」 という意味だと、これまでに本や記録映画が教えてくれた。その下を通る。
数え切れないメガネ、義手義足、鞄、靴、、各展示室を進んでゆく。息苦しくなり、写真を撮る気にはなれない。通路の壁一面に犠牲者のごく一部の写真が貼られている。数千人が銃殺された「死の壁」には花が置かれている。みな静かにガイドの説明を聞く。
アウシュヴィッツ第二収容所ビルケナウの鉄道引き込み線
両側に300以上の木造の囚人棟があったそうだ。保存されている粗末な囚人棟と薄暗いガス室を通り抜け、犠牲者の国際追悼記念碑へと歩いた。
ワシントンDCにあるアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館 United States Holocaust Memorial Museum に行ったのは、2013年だ。そこはホロコーストを学ぶ場だった。
ヨーロッパ大陸で起きた大量虐殺の歴史史料、ビジュアル化されたデータ、記録映像が米国流にダイナミックに展示された館内。HOLOCAUST ENCYCLOPEDIA 百科事典を読むように順路に沿って歩き、ヒットラーのナチス・ドイツ政権がいかに冷酷無慈悲に、ヨーロッパのユダヤ人600万人を迫害し殺害したかを学んだ。
そして今、数多く作られた絶滅センターの中の最大規模の収容所、アウシュヴィッツ=ビルケナウに立てば、80年前理解をはるかに超えるジェノサイドが行われたその地で、全くありきたりだが、自分にできるのはただ悲しみ祈ることだけなのだと思う。
重い一日を過ごした翌日、クラクフ旧市街を散策した。
今回の旅行で訪れた美術館の多くは、外側から見れば古びた目立たない建物なのに、中は光を取り込むよう近代的に改築されている所が多かった。
ダ・ヴィンチ「白貂を抱く貴婦人」はやはり美しい。ポーランド侵攻でナチスに収奪され、クラクフに戻るまでの経緯も興味深い。
中央市場広場の中心に織物会館がある。観光用の馬車がカッポカッポと通り過ぎてゆく。
聖マリア聖堂、祭壇と天井の美しさは必見だ。
ポーランド第二の都市クラクフは、ワルシャワのように爆撃で破壊されることがなかったため、歴史のある建物がそのまま残っている。
薄暗い洞窟や火を噴くヴァヴェルの竜には、様々な中世の伝説が残っているらしい。
城の下、ビスワ川に沿って歩道を歩いた。と、ふと立ち止まった時、全く偶然だが、その敷石の一つに Roman Polanski という名前が刻まれているのに気づいた。調べてみると、フランス生まれの映画監督ロマン・ポランスキーはこの町で幼少期を過ごしたユダヤ人であり、妊娠中だった母親はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で亡くなったのだという。その後のシャロン・テート事件といい、なんという壮絶な人生だろう。ワルシャワを描いた『戦場のピアニスト』 The Pianist には、より深い意味が込められていたことを知らなかった。
ポーランド国鉄でワルシャワに移動する日の午前中、トラムで川を渡り、シンドラーの工場 Oskar Schindler's Enamel Factory 現地ツアーに参加した。
スピルバーグの映画 Schindler's List が伝えた物語の背景、1939年から45年にかけて、ポーランドで起きた出来事が時系列に展示されている。工場で作られたホーロー鍋と、ゲットーから連れ出され、収容所に送られることなく生き延びた人々の写真、そしてこれはシンドラーが実際に使っていた机だ。
秋の中欧旅行③プラハ ― 2023/10/24
2012年の初夏、友人と3人で「プラハ、チェスキー・クルムロフ&ウィーン」個人手配ツアーに出かけた。あの時1日だけど市内を歩いたから、だいたいの地理は覚えているよねと、ホテルに荷物を置き、気楽に旧市街広場まで歩いて細い横道に入ったら方向がわからなくなった。周辺の道路は狭く、複雑に入り組んでいるのだ。
こういう場合、わたしはしばしば、むやみに動いてGoogle mapを混乱させてしまう。急ぐわけではない。勘に任せよう。
しばらく歩いたところでジェラートを買い、食べながら日の沈む方角へ進むと、エルベ川、チェコではヴルタヴァ川、またはモルダウ川に出た。川岸でストリート・ミュージシャンが歌っている。カレル橋を目指して北へ向かうと、プラハ城が近づいてきた。
美しい夕暮れだ。
その後3泊の滞在中に行ったのは、
もちろん、観光客で大混雑のプラハ城 Prague Castle
それから 国立博物館 National Museum このホールで撮影された映画があるらしい。
ドームへ上って、ヴアーツラフ広場を見下ろした。
そして、フランツ・カフカ博物館 The Franz Kafka Museum
薄暗い館内に、カフカの生涯と作品の展示が並ぶ。読んでも読んでも先に進めない『城』の動画が流れている。
カフカのKはまだ彷徨っている Kafka’s K is still wandering.というフレーズが頭に浮かんだ。
そして、自由の象徴として、いまや世界数カ国にあるというレノンの壁 Lennon Wall
ペトシーン展望台タワーは、ケーブルカーで登った丘の上にある。タワーから眺めるプラハの町の美しいこと!
映像の世紀バタフライエフェクトなどが、この町の歴史を教えてくれた。
民主化革命が滑らかに行われるために、人々がどれほどの迫害と弾圧に耐えなければならなかったか。初代大統領ハヴェルとルー・リードの交流にも胸を打たれた。
それは"Walk on the wild side"より後なのか、、とついさっき関連事項を調べていたら、クリントン時代、ホワイトハウスでハヴェルのために開かれた晩餐会の席にはカート・ヴォネガットも招待され、ルー・リードの演奏を聴いたらしい。みんな揺れ動く歴史の中にいるのだ。
移動日の週末、旧市街広場ではウクライナ支援の集まりが開かれていた。
秋の中欧旅行②ドレスデン ― 2023/10/22
わたしをドレスデンに運んだのはカート・ヴォネガットである。
1945年2月連合国軍によってドレスデン爆撃が行われた時、22歳のカート・ヴォネガットは地下の食肉貯蔵庫に囚われた捕虜の一人だった。二昼夜にわたった爆撃後、数万に及ぶドイツ市民の焼死体をくすぶり続ける廃墟から掘り起こすため、生き残った様々な国からの捕虜たちが集められた。20数年経って彼はようやく、その壊滅的な光景を(奇妙な乾いたユーモアを用いて)書くことができた。
SF小説『スローターハウス5(第五屠殺場)』の中で、主人公ビリーは時間の渦に解き放たれ、「そういうものだ」(So it goes.)とくり返す。欧州屈指の美しかった街は完全に破壊され「月の表面みたいだった」。
想像を絶する大量殺戮というトラウマ体験を、ヴォネガットは『国のない男』その他の作品の中でも、常に断片的に切り取り語っていた。
WWⅡ以前の壮麗なドレスデンと爆撃ニュースの映像を、出発前にYouTubeで見た。
ドイツ国鉄特急でベルリン中央駅から2時間ほど、
ドレスデン中央駅前でGoogle mapの指示通りトラムに乗れば、黄色いトラムは途中から予想外の方向に曲がってしまい、あわてて降りて石畳の道をおよそ5ブロック、ガッタンゴットンとスーツケース引いて歩くはめになった。
苦労が報われたか、旧市街中心部にあるホテルの(屋根裏)部屋は聖母教会の真向かいだ(ヒルトンの隣り)。
窓から見下ろす広場では、にぎやかにオクトーバーフェストが開かれていた。
思い入れの強かったドレスデンだが、何のことはない。来れば気分は単なる観光客だ。ビジターセンター(i)でミュージアムカード2日間€25を購入(翌日から使用)、いつものように歩き回った。
その後2日間に行った場所を幾つか列記しておこう。
君主の行列
奇跡的に戦禍を免れた19世紀の壁画は、マイセンの磁器タイルで作られている。
エルベ川を見下ろすブリュールのテラス
宮殿にあるアルテ・マイスター絵画館
シュロスプラッツ(広場)
左はカトリック宮廷教会、右がドレスデン城 Residenzschloss
城の中に緑の丸天井 Grünes Gewölbe などの博物館がある。
シニアチケットを買い、聖母教会の塔へ石段280段余りをふうふう登った。
戦争による破壊から、数え切れない都市が(広島にせよ東京やベルリンにせよ)人々の大変な労力の末に復興し発展しているわけだが、このドレスデンとワルシャワなどは可能な限り元通りに修復再生されたという。
旧市街の街並みは80年前と変わらない姿で美しい。そのことに感嘆する。
ドレスデン城の隅に、修復過程の写真が展示されていた。
秋の中欧旅行①ベルリン ― 2023/10/20
ここ何年か、次はどこへ旅行したいの?
と聞かれるたびに、んー、ベルリンかな、と答えていた。実際のところコロナ後に行ったのは別の場所だったけれど、さあそろそろ出かけなくてはね。
9月15日からの中欧一人旅(16泊18日)備忘録です。
成田からトルコ航空利用、つまりイスタンブール経由で到着は夜11時過ぎ。
遅延のため、ホテルの最寄駅までの直通電車は終了していた。直通電車があるから選んだホテルなのに、、。
初めて利用するSバーンとUバーン、チケット購入も手間取る。が、幸い、同じ方向へ行く親切な女の子18歳が乗り換えまでを手伝ってくれた。長すぎて言いにくいゲズントブルンネン駅に着く。暗い駅前道路をできるだけさっさと歩き、静まり返ったホテルにチェックインした。
初ベルリンは4泊(観光は正味3日間)だ。 青字リンクしてます。
<観光1日目>
まずはここへ行くのだ。
過去の様々な時代の絵や映像や写真を、これまでに数多く見た。ナポレオン、ナチスの旗、前を遮るベルリンの壁、そして壁の崩壊、、
感慨にふけりながら広場を歩き、クアドリガと女神を見上げ、門をゆっくり正面からくぐり抜けた。(と、この日は平穏だったが、翌日夕方ここを通った時には、環境団体による抗議の塗料吹きつけ事件が起きていた。)
見渡す限りに2,700余りの石碑が並んでいる。
西の公園を斜めに通り抜け、絵画館 Gemäldegalerie と現代美術館 Neue Nationalgalerie を回った。
レンブラント、ホルバイン、フェルメール、カラヴァッジオ、そしてキルヒナー、ベックマン、、
初日の午前中そんなに急いでどうする?と自問しつつも、気が急いてしまう。
ベルリンは美術都市でもあるのだ。オンラインで入手しておいたミュージアムパス Museum Pass Berlin の有効期限は3日間、30ヶ所もある博物館/美術館のうち、一体いくつ訪ねられるだろうか。走り回らずゆっくりと作品を観たい、でも気持ちは前のめりになっていく。
気がつけば、午後2時を過ぎている。
ヴィム・ヴェンダース 『ベルリン・天使の詩』 の頃とは全く違うポツダム広場を抜け、モール・オブ・ベルリンのフードコートで名物カリーヴルストを注文した。ふーん、これなのか。
そして、テロのトポグラフィ Dokumentationszentrum Topographie des Terrors
さらに、冷戦時代の境界線を象徴するチェックポイント・チャーリー Checkpoint Charlie へ。
大勢の観光客が交代で写真を撮っていた。
既に夕方だ。
この日行った場所はどれもブランデンブル門から南北/東西2、3kmの範囲にあるのだが、美術館内の歩行を入れればかなりの距離を歩いたことになる。疲れてきた。
土曜日のうちにホテル近くの大きなスーパーで水などを買う必要もあり(翌日曜は休み)、ようやく分かりかけてきた地下鉄Uバーンで戻ることにした。
<観光2日目>
博物館島へ行く。これはヴェンダースの2作目にも出てきた旧国立美術館 Alte Nationalgalerie だ。さびれていた映画の場面とは違い、入館者の列までできていた。クリムトの展覧会が開かれていたからだ。
博物館島には5つの大きな国立博物館がある。1日で全部回るなんてとんでもない。
バビロンのイシュタール門、何という美しさだろう。ペルガモンの大祭壇は改修工事中だ。そしてこの10月23日から、博物館全体がしばらく休館になるという(ダスパノラマは公開)。
ペルガモンから新博物館 Neues Museum に移動した。
有名なネフェルティティの胸像、この周囲だけは写真撮影が禁止されている。膨大な数の所蔵品に、頭がクラクラしてきた。
旧国立美術館で主に常設作品を観て(実はなぜかクリムトが苦手なのだ。ウィーン世紀末ならエゴン・シーレとココシュカのほうが好き)、博物館島入り口のジェイムズ・サイモン・ギャラリー2階のカフェで遅いランチをとった。
それから橋を渡り、川沿いで行われている週末のフリーマーケットをぶらぶら歩いてから、ドイツ歴史博物館へ行った。が、本館は工事中のため休館中だ。イオ・ミン・ペイ設計のガラス新館で(1989年のベルリンの壁崩壊を起点に過去へ遡る)ROADS NOT TAKEN という企画展と、全く知らなかったドイツのシンガーソング・ライター Wolf Biermann 展を見た。薄っぺらだった自分のベルリン観に、ほんのわずか厚みが加わったような気がする。
この日と翌日は、バス地下鉄トラム共通の1日チケット(現在€9.50)を利用した。目抜通りウンター・デンリンデンの国立歌劇場前からバスに乗り、(無料だが)時間予約済みの国会議事堂へ向かった。
<観光3日目>
must-seeはイーストサイド・ギャラリーだ。ベルリンの壁 Berliner Mauer は部分的に保全され、シュプレー川沿いの壁には100以上のグラフィティが描かれている。
最も有名な独裁者のキス(ブレジネフとホーネッカー)前には人だかりができており、観光ボランティアが気づかないうちにこんな新聞を作って手渡してくれた。
白水社の『若きWの新たな悩み』を読んだのは70年代、東西冷戦の頃だった。ライ麦畑的Wの悩みは、記憶が正しければ、USA製のジーンズをいかに入手するか、なのだった。
映画『グッバイ・レーニン』はしばらく前に、旅行を決めてから『善き人のためのソナタ』とヴェンダース2作品を見た。戦争関連の映画や映像の世紀なども。
肩の上につい天使カシェルを探してしまう戦勝記念塔 Tiergarten。バスはぐるりと円柱を回って南へ進んだ。
カイザー・ヴィルヘルム記念教会 Kaiser-Wilhelm-Gedächtniskirche の前でバスを降りる。1943年イギリス軍によるベルリン大空襲で、大きく破壊された教会だ。その横の新教会の壁は、2万枚以上の青いガラスで作られている。心落ち着く静かな空間だ。
ジグザグ鋭角の複雑な建物の中に、印象深い展示物が収められている。急な階段を上り下りし角を曲がりながら、ユダヤ人の経た困難な時代を辿っていく。顔のように見える丸い鉄片をザクザクガシャガシャと踏んで歩くこの空間では、誰もが沈黙してしまう。
それからアレクサンダー・プラッツまでトラムに乗り、Uバーンでゲズントブルンネン駅に戻った。慣れた頃には次の目的地へと移動なのだ。
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